Jin Nakamura log

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昨年に続き今年も諏訪湖は全面結氷しお御渡りが確認された。湖を貫くこの氷の亀裂は神様の恋路…ということになっている。遠距離(といっても湖の対岸同士というニュアンスだが)の張り裂けんばかりの想いを氷のせり出しに刻むわけだ。それにしても天でも地でも神様の逢瀬は刹那だな。一年一度、しかも夜空が曇れば涙雨、水がぬるめば渡る能わず…そんなイチャイチャしなくてもちゃんと通じておりますのでしょうかね。ちなみに人間はセックスをして子を生しますが、次元の高い天使界に行きますと、お互いに微笑み合っただけでその件は成立するらしいですよ。ま、人間界でも思春期の頃イケメンくんと目と目が合っちゃっただけで妊娠しちゃったってJKのウワサ話も聞いたこともありますがね(もはやカミの領域です)。

なお現在の諏訪湖は結氷は半分ほどになっており、お御渡りの痕跡もすでにない。それでも広大な湖が白く覆われた様は神秘的なものがある。写真は本日のもの。夕暮れの湖畔では氷の軋む音が鳴り続けていた。

(コレ、神様でなくてもついフラフラっと対岸まで歩いていきたくなっちゃう)

というわけで今回は「酒蔵で本を読むくらもと古本市」in真澄で開催された美篶堂さんの『和装本四つ目綴じ』ワークショップに参加してきました。

美篶(みすず)堂さんは長野・伊那市にある製本屋さんです(といっても普通の製本会社じゃないよ)。以前から一度行ってみたいと思ってたので、しかも僕個人的にも御贔屓の蔵元「真澄」さんでの開催とあって即決で申し込み。とは言っても職人仕事ですからね、A型因子が年々低下していく我が身につとまるか若干の不安をかかえつつも結構イイ感じにできちゃったりして…気に入ったんでコレ仏画帖にしようかな。

ゆめのふち-の続き

白洲さんのと同時に読み進めてるのが「明恵 夢を生きる」(河合隼雄・著)。こちらの方も同性ではありますが白洲さんとはまたちがったカタチの愛おしさをもって名僧の夢世界に挑んでいる気配あり。もっともこの二人この件がきっかけかどうかは知りませんが交友関係にありますね。

河合氏の著作・対談集などは若干拝読しているが、ココロと向き合う仕事柄か宗教(特に日本人と仏教)に関する著述はかなり興味深く、また自分自身そう言った趣向の文脈に特に偏って出会っているフシがある。なので実は彼本来の研究テーマである分析・臨床心理学系(ユングとかさ)の本はほとんど(ウソつきました一冊も)読んでない…が、そうは言っても意識・無意識の深遠のこと、そしてつきつめれば魂の話、感覚的にソチラの方面もフムフムとなんとはなしに勉強になるんだなこれが。

さて、本著作で氏は明恵の夢世界に分け入る前に彼の仏教史における立ち位置を確認する論を展開している。その中で「鎌倉期に次々に現れた祖師たちは、仏教におけるある一面を切り取って、先鋭的なイデオロギー的教義を打ち出して独自の宗派を形成していった…」と。宗教では特にありがちだが「これが正しい」と真理を説けば「これ以外は誤り」と他をラジカルに攻撃せざるを得ない。イデオロギーとはよく政治的観念の主張として使用されるが言われてみれば宗教にもよくあてはまる。そしてこうした明白な主張は人を惹き付け、善悪・正邪の判断基準を与え、その時代の変遷・選択の記録が歴史として残る…というわけだ。これはとてもわかりやすい。

一方、この範疇におさまらないのが明恵である。というか彼も含めて前述の祖師たちが勤めて流布せんとした「仏教」そのものが本来実はまったくイデオロギー的ではなく、それそのものは多分にコスモロジー的性質を持つものであると著者は言い切る。これも腑に落ちる。人間の存在などそもそも矛盾に充ちたものだと…存在そのものに善悪・正邪を孕み、仏教こそはまさにそうした存在を踏まえてそれでもなお生まれた宗教ではないかと、氏は問う。

コスモロジーは包括する。イデオロギーは切り捨てる。

自分という存在と深く知ろうとするなら生に対し死、正に対し悪。その受け入れがたき半身と向き合う恐怖に立ち向かうこととなるわけだが、それさえも包み込んで多くの矛盾と共生していく姿勢がコスモロジーを形勢するのだと。

明恵が「何も興さなかった」わけがわかるような気がする。

コスモロジー…その歯切れのよくない世界がなんとなくおもしろソーじゃない?

ゆめのふち

正月以来が然「夢」というものに興味津々なわけだが、かの世界に深く旅に出ようとするも未だその縁にとどまり深遠なる無意識界をおそるおそるのぞいてみている…てところだろうか(てか、忘れちゃうんだよねーすぐ…)。

きっかけは先にも記した明恵という人であるが、この件についてまず最初に読み進めた一冊が「明恵上人」(白洲正子・著)。で、この白洲さんて方、案外イイひとなんじゃないかなと…(失礼)。なんかさコワソ〜なおばはんのイメージあったのよ。ま、能に造詣が深く骨薫る世界を愛でる嗜好や、そのそうそうたる交友関係などをざっとさらっただけでも、そりゃフツーに近寄り難い空気を醸し出しますわね。

ただこの著作について言えばよい意味で文体がとても中庸で、取材したことや想いに誠意が感じられ、なにより分かりやすい。テーマに拠るのだろうか、別な著作を読んだときはさほど感じなかったのだが。おばはんきっと上人に惚れちゃってたのかもな。言葉が初々しいというか瑞々しいというかさ。そんだけ明恵さんステキなひとなんですよ、たぶん。

「明恵が信じたのは仏教ではなく、釈迦という美しい一人の人間だったといえましょう…」

彼女の言葉より。

ふしぎな雲、雪はほとんど融けました。

明恵

「あきえ」ではない。「はるえ」でもない…だから女の子の名前ではない。「みょうえ」お坊さんの名前である。空海、親鸞、日蓮、西行…と、bow-san booksをなんとはなしに読んできたわけだが今回はこの方にハマりつつあり。とはいってもこのひと、日本的霊性が大きく活性化した鎌倉期にあって先に上げたbow-sansの内、親鸞、日蓮などは言うに及ばず法然、道元などなど名僧と言われる人々が名を残す中、特に新しい宗派を立ち上げたわけでもなく、現在に至るまで彼の教えを伝え続けるような一派が徒党を組んで残っているわけでもなさそう。でも先の“ナニかを成しとげちゃった”人たちとはまったくちがったタイプの人間的魅力の持ち主っぽいのよ。

樹上座禅像」なんかこのインパクトのない感じ、よいでしょ。普通頂相図などは威圧感・存在感をもって良しとするところだけれど、このひと履いてきたきたゲタをぬぎ捨て、二股に分かれた松林の木に座っちゃってます。お数珠もそのへんにひっかけて。あまりにも周囲と一体感ありすぎで、剃り上げた後頭部あたりから今にも栗鼠などのぼってきそう。

こんなこと言ってます「我は後世たすからんと云う者にあらず。ただ現世にあるべきようにあらんと云う者なり」。前半は当時一世を風靡していた浄土信仰とはとても遠いところにある言葉ですねぇ。後半もなんかチカラがぬけててイイ感じ。一宗一派を成さんともせず、大寺院を建てようともせず、特に弟子もいらないといい…それでも人を引きつけるなにかもってる不思議なオッチャン。

その不思議キャラを今に伝えてるのが「夢記(ゆめのき)」…

しばし彼の夢世界を探検してきます。

untitled

写真右下はヒトの、左下はそうでないモノの足跡。

長ぐつで歩くのしんど〜い…でもたのし〜、マジでスノーシュー欲しいぞ!。

Reacent books◎「AKIRA1〜6」大友克洋/「明恵上人」白須正子/「恋明恵」光岡明/「明恵  夢を生きる」河合隼雄/「絵解き般若心経」瀬戸内寂聴+横尾忠則/「霊告日記」北一輝

AKIRA

このコミックを最初にみたのはいつだったろうか。たぶん当時としては珍しい週刊誌サイズの版型で単行本化されてすぐくらいだったと思うのでもうメチャクチャむか〜しのことですよ。TSUTAYAの古書コーナーでずうっと前から並んでて気にはなってたんだが、誰も買わないみたいなんで、しゃーないなーってんでついまとめて…。

たぶん都内で個展かなんかのとき泊めてもらってた従兄弟んちの書架に並んでたのを毎晩読んでたような。彼のアパートは晴海埠頭近くの新興団地にあり、まだ建設されて間もないその広大な埋め立て地は街としての機能がほとんど整備されてなく、夜ともなれば本当にここに人が住んでいるのだろうかと思うほど、整然と立ち並ぶコンクリートの巨塊のみの異様さだけが目立ってずいぶんと不気味な印象だった記憶がある。

銀座からバスでものの10分ちょっと。隅田川を渡ってさほどその先があるわけでもないのだが…。その人の匂いのしない“街”のようなモノはちょうどコミックの舞台となっている「ネオ東京」の旧市街を連想させ、窓から見える暗闇(実際にはその先には東京湾が広がっていたわけなのだが)のすぐ先には爆心地のクレーターがぱっくりと口を開けているような妙なリアリティーがその場所にはあって不思議な気持ちで読み進めていた記憶がある。

ああいったストーリーは田舎でボ〜っとソラ見て過ごしてる人間にはとても描けないとは思うのだけれど、この物語りの同時代、地方都市の人々はどんな暮らしをしてたんだろうと読みながらふと、確か晴海で読んだ時もそんなこと考えたような…。この手…最終兵器使用後あるいは第三次世界大戦後…のモノガタリの開始設定のSFは多々あるが、そして舞台は必ず都市型廃墟であるが、それはソレ…あくまでも関東平野の海のそば限定で起きたことで、田舎にはフツーに暮らしがあったんじゃないかと…。春になれば山笑い、夏・秋と豊かな自然を謳歌し冬がくれば山眠る。お祭り騒ぎのような街にキノコ雲があがっても村々にある鎮守の森はなくなったりはしない。そんなモノガタリのような脆弱さは本来は田舎にはないのだ!…などとみもふたもないことを思いつつもまとめて購入した4冊読み終えてみたらコレ6巻まであんのね、てんでさっそく残りの2冊を求めAmazonさんへ…。

神保町再び

軽井沢追分7:30am/-6℃…東京神保町10:30am/10℃。ということで関越道3時間で気温差16℃、着膨れしたモノを一枚づつ脱皮しながら古書店見習い二度目のチャレンジ&リベンジで再び神保町古書会館に出没。前回は海千山千のプロの皆さまにさすがに全く相手にされず、全敗だったわけです(古書会館の市での買い付けは入札制なの)が、今回は多少学んだせいか少しだけ買い付け成功、おミヤお持ち帰りあり。前回もボウズだったとはいえ、全くトンチンカンな数字を入れたわけではなかったので感触はあったのです。で今回とれなかった山(一冊づつ買うシステムじゃない)もホントあと一歩なのね…僅差のは何十円の差とか。ただそこがプロの気合いの差なんだろね、なんでもさ最後の一歩が大きいわけよ。こういう世界にビギナーズラックはないの、あるのはキビシイ洗礼のみ。ま、ある意味ギャンブルみたいなもんですよ。しかもそういうかけ引きってあんまり得意じゃないのなー、たぶん結構ノーガード…読まれやすいっていうかさ。でも客観的に考えると気づかぬうちにかなりギャンブル的人生おくってるような気もしないでもない…が。

ところで神保町って楽器街でもあんのね、本に集中してんで今のところのぞいてるヒマないんだけど、その内ゆっくり弦楽器物色希望ナリ。

紙媒体

来年度油やプロジェクトから発刊させようとしてる紙媒体(メディア)の編集会議。Key-wordは…Map・Art・人・レジデンス・無(0磁場/0的)・原野復興(青年は荒野をめざす/無からカオスへ)・境界(異界と人間界/吃水)・俯瞰・無目的・きのこ・てぬぐい・ブキニスト・本のまち・活版・ガリ版・裏メディア…で3時間。さて以上をどう編集・翻訳したもんでしょうかね。ま、いつもながらこんなこと話してるうちが楽しいんだけどさ…それでいいでしょ。

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12月に入って何度か雪になっている…我が家の周辺はまだ積もってはいないが、少し標高が上がると今日あたりは道路は圧雪らしい。風の強い一日であった。雲がちがう階層で流れる方向がちがったりしておもしろい。散歩もしたいのだがうっかり何かに集中してるといつのまにか日は落ちて外にでるタイミングをのがしたりしてる。

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愛染明王ってやっぱり赤いんだなぁ。こちらはムスコ3号のiPhone待ち受けに。そんな19才も珍しかろう。

復原国宝仏画

昭和44年、限定3000部で発刊されている。著者は宮原柳僊氏。実は先日の神保町古書市、僕はこの画集に出会うためにそこにいたような…。外箱・化粧箱・桐箱の三重構造装丁でホントだったら開けてみんのとってもめんどくさそうな本だったのだが、なんか気になったのね。

表題に“復原”とある通り古い仏画ではない。日本画家の宮原氏…その時まで僕はこの作家と仕事について全く知らなかった…が主にその時点で国宝に指定されている各地の仏画を驚くほど丁寧に復原描画しているのだが、うまく言えないけどとにかくこれがスッゲーのだ!(ガキんちょみたいな表現…)。なんだろね、古いものの枯れた有無を言わせぬ威圧感(歴史だからさ!っていうような)でもなく、かといって新しいもののあざとさでもなく…。もちろん復原だから当時の様式というか形象はちゃんと感じつつ、それでいてライヴ感がある。博物館行きじゃなくて“今”使えるのよ。原画にはおそらくとても忠実で、妙な解釈というかこの手の絵にありがちないらん幻想はなし。だけどちゃんといやらしくなくどこか彼らしい。たぶんこの作家、とっても気持ちがニュートラルな人だったんだろな…それを尋常じゃない技術が支えてる。生きていらっしゃったら弟子入りしたかったな…独学大好きだけどなんかはじめてそう思う。

で、そのとき僕はこの本に当然入札したんだけど落札できなかたのです。こんなジャンルにひっかかるの自分だけだと思ってたら、さすが現場はプロの巣窟。ちゃんとライバルがいて僅差で負けちゃいまして、で当然すげーショックで…でもこうして今僕の仕事場にソレはあるのです…ヘヘ。なんか思わずほお擦りしちゃいそ(しちゃったけど)。というわけで現在ぼくのケータイの待ち受けは宮原氏の大日如来さんです。

あー、こんな絵描きてぇー!…百年かかりそ。

Folklore

民俗学…folkloreのアカデミックな位置づけについてなど確かに考えたこともないな。それって単なる民間伝承の採集…おばあちゃんの知恵袋的なモノ(ジジイに至ってはなにも伝えない?)…結局迷信…みたいなサ。原作者・大塚英志のあとがきを引用するなら「…いかに学門化しようとあがいてみてもはたされ得ないのは、その起源において始まりの民俗学者たちの私的な「妄想」にその本質を規定されているからであるとさえ僕は考える…」と。本編の狂言回し小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)のパトリキオス・レフカディオス・ヘルンという真実の名の由来・来し方を知るに至りそれは納得できるし、また健全な成り立ちだとも思うのだ。

舞台となっている明治あるいは維新というイメージに僕は全く好感を持っていない(折しもこの件は来る選挙にも影響するだろうな…て、それはさておき)。天下太平(これはスゴイことなの)徳川の御代の衝撃的終焉をみて後、そのトラウマを乗り越えようとアレルギーのような過剰反応で文明を開花させていく日ノ本。列強諸国に手習い近代化への弊害…それは本来は何者にもまつろわぬ奇しきモノだったはず…を克服せんと“血統”正しき神の御世をお祭り騒ぎのように成していく。そして“空腹”はまぎれたか…。

忘れ去られるはfolklore…、悲しきは“まつろわぬモノ”。一度ならずとも“カミ”と呼ばれたこともある傍系・異端のモノたちは何れ我が名の記憶もなくし“正統”の影に「かくり世」の門をとざされる。

将軍が好きか天皇をとるか…ということではない。明治に限らず統治者が代わればその御代に「あってはならないモノ」が封印され続けてきたわけで。時代に「必要なモノ」はあるだろうがあんまりお役にたちそうもないモノも根絶やしにしないでほしいな…と思うのですよ。そう考えると産業革命後の欧州から遠く亜細亜の島国に骨を埋めた八雲の足取りの必然も納得いくもの。もともとこのアキツ島にはそうした気配が豊かにあったわけだろうから。

ホントたまたま手に取った「八雲百怪」…しばしハマりそう。