Jin Nakamura log

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181220

昨日新聞の取材を受けて…しかもとても丁寧に取材していただいいて結局自分の作家歴ざっと30年分を語ることになる。ちょっとしたギャラリートークなどでざっくり紹介する機会もなくもないが、仕事場にて当時の資料などを引き出しながらお話をするなどということはまずないので懐かしくもあり恥ずかしくもあり。
歴史は大切だが、たかだか30年程度の回想など普段であればさほど意識することはまずないし、たとえ機会があっても、またその時点でもということであっても「回顧展」などというタイトルで存命中に展覧会はしたくないなと思ったりもするが、今この瞬間が大切なんだよ!と意気がってみても、過去は意識せずとも我がタナゴコロの内に自然とにじみで出て、生み出されるナニかの背景に通奏低音のようにどこかで自分の個性を支配しているのは間違いない。
この度の取材のような場合、その根拠がわかってるものについてはもちろんちゃんと説明ができるのだが、今回仏画を描き始めた経緯を説明するにあたり、「そもそもなんで15才で仏像にハマったのですか?」という質問に答えがつまってしまった。前世で作ってたんじゃないですか…とか、女の子に一目惚れすんのと一緒ですよ…とか、およそロジカルな説明とはほど遠い言い訳をしつつも、改めて問われるとやっぱりわからない。仏像好きのお爺ちゃんの影響ですとか、おウチの隣りが東大寺でしたとかいうならねえ…。
いずれにしても理由はわからないけれど自分の人生の中で欠かせないモノであることは確からしい。

というわけで(唐突だが)大人の遊学旅行行ってきた。
まずは生駒郡斑鳩町法隆寺。

川の風祭り2014

行ってまいりました関西ロード。

まずは三原谷・朝のお散歩の風景から。

そろそろ地区住民人口よりも鹿やイノシシ人口の方が増えそうだとのこと…。ぼくもボーっと歩いていたら害獣駆除用の電圧線にひっかかってしまった…けどなぜか感電しなかったな、ジーンズは電流を通さないのか?

ま、いずれにしても美しい風景は3年ぶりでも変わってはいなかった。

141029

花腐し…

花びらを拾って歩いた、まるで少女のように。いや、そもそも少女は花びらを拾って集めたりするだろうか。これはオッサンの純情がさせる全く無意味な行為ではないか。

そうやって集めたのはコブシの花片。名ばかりの春の間に薄霜がなんどか降りたが、くりぃみぃな白を薄汚れた茶色のシミに染めながらもなんとか枝の先にしがみつき卯月の終わりにとうとう落ちた。

目の前に落ちていたわりと綺麗な1枚だけ拾うつもりだったのだが、横に目をやるとあちこちに散乱する花びらがなんだか急にいとおしくなって昨年の枯れ葉の中を歩き回り何枚も集めた。こうやって下だけを見ながら奥へ奥へと進み人は山に迷っていくのだろう…が、コブシの木は我が家の庭先にあるので僕はどこへも迷わない。

最初は出来るだけ状態のよいモノだけを集めるつもりだったが、そのうち薄茶に汚れたのもなんとなく美しく思いはじめて「このシミはよいかな…」などといろいろなものを拾い集めてみた。

さて自分なりの観点で美しいと思って集めてはみたが、これらの花びらはこの後どのようになるのだろう。もっとビビットな色であればやがて色が抜け落ちて脱色しそうだが、コブシの花はもともとそれほど主張の強い色ではない。ただ早春の山腹でまだ周りが枯れ木ばかりの中、いち早く大柄な白い花弁をつけるから、その時期には結構目立つ花木ではあるが。

白はしろのままであろうか。白が脱色するイメージはないが、茶色に変色していくのだろうか。考えてみたら花びらの行く末など考えてみたこともないので、そんなたぶん当たり前すぎるような結末を実は何も知らないことに気づいたりする。

「卯の花腐たし」という季語があるが、「腐たす」のはなにも卯の花だけではない。すべての美しい花は皆その役目を終えれば落花し腐る。

このウッキウキの季節になんでそんなモノに引っかかったのか我ながら不思議であるが、とりあえず写真に残し、この後は科学としたい。

14428

霧欝

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遠近法の風景の先に消え行く白い闇…。

イキモノとしてカラダに余分な程の精力に満ちあふれてた思春期の頃ならば、例えばポツポツと陰鬱な呪文のように降り注ぐ雨音にさえ健全な哀愁を感じたりしたものだ。事実僕は10代の頃そういう音を発生する装置を作ったことがある。基盤にダイオードだのトランジスタだのを意味不明な回路にハンダで括り付けイヤホンに出力して聴くのだ。眠れない夜にはオススメの装置だったらしいが、今思うと全く余計なお世話、いかにも変質的な一品にも思える。

体力的にとうにピークを過ぎてるこの身にとって自然界に存在するポジティブな要素ならすべて取り込んでも生き抜いてやる…というほどの覚悟なれば、やはりお天道様の光などはありがたい。必然、小糠雨だの濃霧だの類いは気がめいるだけで no thankyouということになる。昔爺様が毎朝お日様に向かって柏手を打っていた姿を思いだし、そんなことに妙なシンパシーを感じる自分がいとをかし。

先日の雪欝が解消されつつあったところに、このところの若干の気温上昇で雪にならない湿り気は終日深い霧となって山麓にとどまる。しかも未だ解け残った尋常ではない量の残雪が風景をより白闇に落としこんでいる。

…要するに元気がないのだ。

それでもと、気をとりなおして描きかけの「弥勒」のために絵筆をとれば不思議なもので少しだけチカラが湧いてくるような気がする。タマシイとカラダは連動してるのだろうからそうい現象もあるだろうし、もともとアートにはそういう刺激性があるのかもしれない。

なんでそんなものを手に取ったのか思い出せないが「N-ART #アート」という2008年に長野県在住の15名のアーティストをインタビュー形式で紹介した冊子を書棚から引っ張りだし眺めていた。中綴じ冊子なので当然背文字タイトルもないから今日何故それに手をかけたかほんとに不思議なんだが。

副題は「アーティストは長野で食べていけるのか?」とある。まあずいぶんと興味本位というか不躾なテーマであるが、最近はこの業界のメジャーな作家やキュレーターなどもこぞってアートとお金を話題にした本がよく出版されているので、そういう意味では地方発の小冊子だが目のつけ所は悪くなかったのかもな。

インタビューはこんなだ。

Q.今までの作家活動で辛かったことを教えてください。

友人の画家・小山利枝子氏はこんなふうに答えている…「…お金を回していくことは大変だったし、泣いたこともあったけど…その度「嫌だったらやめればいい」と自分に言い放ってきた。…もちろんやめる気になったことは一度もありません。画家の仕事は全部自分のためにやってるわけですから。辛いなんて思ったら罰が当たる。描くのをやめなきゃいけないとしたら辛いけど、やめてないから辛くない、これでいいんです。」

同じく版画家・田島健氏はこの質問に…「あんまりないなー。あ、千葉に住んでるときに、真夏にパンツ一枚で仕事してたら膀胱炎になって苦しかった(笑)。

で、僕ナカムラはなんてこたえたかというと…「ないですね。経済的なことを話しだすときりがないけど、まあそれは別にいい。」

だとさ。特に理由もないのになんとなく沈んだ気分の日、小山さんの言葉に気持ちが奮い立ち、田島くんのつぶやきに笑い、6年前の自分の言葉に「あ、ちっとも変わってねーや…」と落ち着きを取り戻した。これでいいのだ!

最後に長野でこちらも粘り腰で僕ら作家の後押しをし続けてくれている、やはり友人のガレリア表参道オーナー・石川利枝氏はこう結んでいる。

「…表現することを生きる糧にする人は、自分の世界により深く降りていくことでしか、いい表現にはたどり着けない。それがその人にとっての地獄であり天国であって、一人で降りていくしかないんです。疲れたらいっしょに飲んであげるから(笑)頑張って!」

そういうわけなので今度また一緒に飲んでもらうか。

そしてもひとつ、必要なものは必要なときに自分のそばにあることを改めて感じた日。

雪欝

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そうだそうだ、そういのあったな…“雪欝”。

むかし住んでいた長野県北部では冬になると雪雲がたまってなかなか晴れ間がない。そこで暮らしている時はあまり気にも留めなかったが、一旦離れて暮らし、戻ってみると「こんなんだったっけ…」ってほど閉塞感のある冬空を日々眺め続けて少々憂鬱な気分になったことを思い出す。

浅間山麓はどちらかというと関東の気候に近い。とはいっても標高は高いので寒さは比べるべくもいないが、冬空はたいがいカラっと晴れ上がっていて雪は少ないのだ。おそらく地元の言葉であろうが「カミユキ」といって春間近に気まぐれにドカンと降ったりするが、それもその時期には大概すぐに解けてしまう。第一いくらドカン…といっても今回のように1メートルも降ったりしない。そして今年の2月は寒い。日中の最高気温も0℃弱をうろうろし、それでも昼間の間に若干湿った雪はそのまま氷化して目の前から消えてくれる気配がない。除雪も追いつかず、一方通行のようなになった狭い道路に車体が傾くほどの最悪な轍ができて…と、とにかくこの居座り続ける白い(このごろは薄汚れてきてるが)モノにそろそろうんざりしてきた。

そういうわけで冬場の欝を久しぶりに思いだす。

この手のことに見識のある知人から「そういう時は太陽の光をあびるといいよ」と。そういえばあの日以来お天道様と意識して向き合っていない。とにかく一歩家をでるとそんな風にボーっと突っ立ていられるスペースがないのだ。

こりゃいかん…と、10年くらい前に自作したカンジキを長靴にくくり雪原に挑まんと家を出たが100メートルで挫折して帰路につく。カンジキ装着でも30cmは沈むんだもん、ムリムリ。そしてカンジキ装着のまま湿ったアスファルトの道を帰ってくるのはチト恥ずかしい。

footmark on snow

土曜日の大雪はこうなった。

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そしてこれをしたかったのだ。

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で、明日も降るのね…。

スノーシュー欲しくなっちゃうな。

wander TOKYO – 8

主たる目的を果たしたぼくらは、すでにさしたる目的もなくあとは上野恩賜公園をブラブラするばかり。周知のごとく美術・博物館が多くある場所なのでいまさらとも思いがちだが、実はあまり知られていないスポットもいくつか。そのひとつが上野東照宮。徳川家康を神格化して奉ってある場所で日光は有名だがこんなとこにもあるんですねぇ。狩野探幽の障壁画などがあるそうですが今回はパスして、今はお顔だけになってしまった上野大仏がある小山に。こちらの胴体は戦時中に軍需供出され南の海に沈んだとか。興福寺仏頭といい受難の鋳造仏の多いこと。咲きかけの彼岸花などながめながら不忍池方面へ。

一言で不忍池といっても池は大きく3つに分かれ、一面蓮だらけの蓮池とボートを漕ぎながらいちゃいちゃするボート池、鵜の池とある。蓮池のハスの花はすでに盛りを過ぎていたが、広大な池は水面がほとんど見えないほどにその葉でうめつくされていた。芸の神様がいらっしゃる弁天堂はすでに夕刻となり扉がしまわれていたので外からお参り。そのまま八角堂の脇をボート池方面に進み谷中七福神の裏手を右に折れると小さな島がある。あまり知られていない場所だと思うがちょっとあやしスポットかな、興味のある方は行ってみて。

その後、都会では珍しくスズメを餌付けしてる親子を目撃したり、いちゃいちゃボートを眺めたりしつつ、さすがにだらだら歩くのが疲れてきたので御徒町方面にぬけ、街の雰囲気も時間的にも普通ならさてイッパイやりますか…てとこなのだが先生は飲めないのでオッサンらは甘味処凮月堂をめざしふたりで仲良く抹茶あんみつなどをたのんで語らうのであった。

かえりぎわ凮月堂のおねえさんに拾ってきたトチの実をプレゼントして、こんな感じでやっと僕らの一日はおしまい。

あ〜レーポト長すぎ!

 

wander TOKYO -7

やはりこうして3Dモノホン仏を間近にすると仏画もいいけど、やっぱ最後は彫りたいなーって思うのだ。

さて拝観後は先生に付き従い藝大構内をかってに散策。「あいさつをしてこよう…」と言われ創始者の像のもとへ。ふと考えると現代とよく似ている。グローバルなどという薄っぺらな言葉に踊らせれ、安易に世界の流れへ追随しようとした明治期(何度か書いたが僕は維新は大嫌いだ)にあって、あえて日本画という言葉を残し、制服と称しまさに白鳳人を想わせるような古代装束風コスチュームを纏う人…岡倉天心。

かの人は人気のない静かな木立に囲まれたその奥にいた。だれが置いたのか足下に黄色い花が一輪たむけてある。

僕はここの学徒であったわけでもないし、天心…大観…小松均…先生の系譜のほんのはしっこにくっついてやって来ただけだけど、その昔教科書くらいでしか見たことのなかった人がなんか突然目の前に現れて少しふしぎな親近感を覚える。人の縁てそんなものなのかもしれない。

あいさつがすんだ後はさらにづかづか構内奥に踏み込み、ここにも先生のいつか描きたいという”銘木”があるとのことで、それをみてまわりながらいっしょにトチの実をたくさん拾った。ぼくはそれほど欲しくはなかったのだけれど、どんどんくれるので僕のカバンの中はトチの実だらけになってしまった。

wander TOKYO -5

新幹線網が今のように整備されるまでは上野駅は信越および関東以北のターミナルであった。長野オリンピック以前はいわゆる特急あさま上野行きで僕も都心に足を踏み入れてたわけで、荒川をすぎて日暮里が近づき右手丘陵地に谷中墓地の卒塔婆群が見え始めたらそろそろ終点だな…というのが僕の東京に近づく印象であった。今は上野駅の地下3階に新幹線ホームがある関係で少し前から地下に潜ってしまうので、都会の玄関口が霊園風景というちょっとミスマッチな光景に出会えなくなってしまった。

長距離列車の視界からは消えてしまったが、この谷中霊園から南に向かい上野公園、さらに不忍池方面までこの界隈は今もって露骨に面白い。70年代あたりまで残っていた東京の怪しさのようなもながまだかろうじて存在しているような気がする。逆に言うとTOKYOというこの街はまったくシラケてしまった。美しくも怪しくもない街に魅力はない。

そういえば件の上野公園あたりには白い装束 と戦闘帽を被って、アコーディオンやハーモニカを弾いているいわゆる「傷痍軍人」という人たちがたくさんいて、子どもの目には怖さと物悲しさを強く印象づけられた記憶がある。戦後半世紀は疾うに過ぎ、こうした風景も過去のものとなった。昨今ではそんな”白い記憶”に代わってブルーシートハウスの一群が長いことこの場を静かに占有していたが、これもいつのまにか公権によって完全撤去されたらしく、中央噴水広場もきれいに再整備されてとっても健全な公園に生まれ変わっている。先生も上野公園はお久らしく、この変貌ぶりには少々おどかれていたようだ…。

って…あ〜なかなかおわらぬ、、、

wander TOKYO -4

相変わらず先生はカァカァ言い…いや鳴き続けている…そしてカラスは大きな羽音をのこして去っていく。異種遺伝子間コミュニケーションは簡単ではなさそうだ。東京国立近代美術館工芸館の裏手から北の丸公園に入るとすぐに、何れかの宮様の馬上にて凛々しき姿の彫像に出会う。由緒札をみれば日清か日露あたりの英傑らしく志半ばで異国の戦地で殉職とのこと。軽く背丈を超える大理石の台座の上の実物大での鋳造作品は圧巻だ。特に制作者は付記されてなかったがなかなかの腕前の職人仕事とみた。台座の下から仰ぎ見ながらチャイナのカップルがイチャイチャしながらデジカメのシャッターをバチバチ押していた。歴史はさておきそんな時代でもあるのだな。
そのまますすむと大きな玉葱の下にでる。日本武道の聖地では本日萌え系ユニットの催しが予定されているらしく騒然たる賑わいであった。ビートルズ初(…結局最初で最後であったが)来日以来我が国のミュージシャンはおしなべてココのステージをめざすこととなっが、昨今はこんな名も知らぬ(僕だけ?たしかcuteとかいったか)萌えッ子たちが軽く登壇できるんだーへぇ〜…とそんなことに感心してる僕の横で、さすが師は悠然たるもので「ぼくはいつかこのイチョウを描くよ…」と傍らにある老木たる勇姿にうっとりするような視線をおくっている。うかつにも、どのこがカワイイかしら…などとついつい大判ポスターの方に引き寄せられかけていた僕は深くふかく反省し「勉強になりまっす!」とココロでつぶやきながら美少女の誘惑に後ろ髪ひかれつつも先をゆく先生の後ろ姿に追随する。
その後城門を出て内堀通り九段下から東京随一のワンダースポット上野へ。

で、次回はさすがにそろそろ最終回にしよ。