白洲さんのと同時に読み進めてるのが「明恵 夢を生きる」(河合隼雄・著)。こちらの方も同性ではありますが白洲さんとはまたちがったカタチの愛おしさをもって名僧の夢世界に挑んでいる気配あり。もっともこの二人この件がきっかけかどうかは知りませんが交友関係にありますね。
河合氏の著作・対談集などは若干拝読しているが、ココロと向き合う仕事柄か宗教(特に日本人と仏教)に関する著述はかなり興味深く、また自分自身そう言った趣向の文脈に特に偏って出会っているフシがある。なので実は彼本来の研究テーマである分析・臨床心理学系(ユングとかさ)の本はほとんど(ウソつきました一冊も)読んでない…が、そうは言っても意識・無意識の深遠のこと、そしてつきつめれば魂の話、感覚的にソチラの方面もフムフムとなんとはなしに勉強になるんだなこれが。
さて、本著作で氏は明恵の夢世界に分け入る前に彼の仏教史における立ち位置を確認する論を展開している。その中で「鎌倉期に次々に現れた祖師たちは、仏教におけるある一面を切り取って、先鋭的なイデオロギー的教義を打ち出して独自の宗派を形成していった…」と。宗教では特にありがちだが「これが正しい」と真理を説けば「これ以外は誤り」と他をラジカルに攻撃せざるを得ない。イデオロギーとはよく政治的観念の主張として使用されるが言われてみれば宗教にもよくあてはまる。そしてこうした明白な主張は人を惹き付け、善悪・正邪の判断基準を与え、その時代の変遷・選択の記録が歴史として残る…というわけだ。これはとてもわかりやすい。
一方、この範疇におさまらないのが明恵である。というか彼も含めて前述の祖師たちが勤めて流布せんとした「仏教」そのものが本来実はまったくイデオロギー的ではなく、それそのものは多分にコスモロジー的性質を持つものであると著者は言い切る。これも腑に落ちる。人間の存在などそもそも矛盾に充ちたものだと…存在そのものに善悪・正邪を孕み、仏教こそはまさにそうした存在を踏まえてそれでもなお生まれた宗教ではないかと、氏は問う。
コスモロジーは包括する。イデオロギーは切り捨てる。
自分という存在と深く知ろうとするなら生に対し死、正に対し悪。その受け入れがたき半身と向き合う恐怖に立ち向かうこととなるわけだが、それさえも包み込んで多くの矛盾と共生していく姿勢がコスモロジーを形勢するのだと。
明恵が「何も興さなかった」わけがわかるような気がする。
コスモロジー…その歯切れのよくない世界がなんとなくおもしろソーじゃない?