Jin Nakamura log

Posts in the Buddhism category

アメリカで仏教を学ぶ

たぶんステキな本に出会ってる気がする。

ずっと不思議に思ってたんだお経…なぜアレがお葬式の時に読まれるのか。あんなものに死者を成仏させる呪文なんか入ってないのにと。ま、そう言い切ってしまっては身も蓋もないないが、たぶんそんな気がするのだ。例えば有名な般若心経なんかはアレは壮大な哲学書でしょきっと…ってあやふやなんだけど、じつはソコ、そのあやふやなとこが大問題だと思ってた。

仏教はもともとインドで生まれたものだから初期に作られたお経はインド語(パーリー語っていうのかな)で記述書体は梵字とかでしょ。それが中国に伝わって中国語訳される。記述書体は漢字となるわけだ。そしてさらにそれが日本に伝わるのだが残念なことにそこでは和語に変換されないまま現在に至ってる。いくら朗々とした声でも漢文をただ音読みされてもねぇ…漢字のニュアンスは一部なんとなくわからんでもないが、やっぱあやふやですよ実際。だから腑に落ちない。

有り難そうな雰囲気は醸し出すがそれはズルイと思うのだ。僕は日本の仏教者の一番の手抜かりはお経を和訳しなかったことと思っている。神道の祝詞なんかちゃんと日本語でしょ。古語も含まれてるから多少むつかしいけどせめてあのくらいにしてもらわんと。

などと悶々と考えてたら出会っちゃった「アメリカで仏教を学ぶ」。この国で出会えなかった問いに海の向こうから答えが届く、得てしてそういものか。

僕は中ボーの頃にただ仏像がカッコえ〜って始まった門前の小僧みたいなもんだから感覚的に本来の仏教はすてきなものだと思ってるが、やはりお経は難しい。十代の頃に最初に般若心経の本を買って以来ちゃんと覚えたのはつい最近。

難しいことを難しく言うのはあまり能力のある人のすることではないでしょ。英語はいい意味でボキャブラリーが少ないからシンプルにストレートに伝わってくる。彼らが「KANJIZAIBOSATSU…」とやらかしてなかったことに拍手を送りたい。だけど我が国の導師たちは「観自在菩薩…」と始めてしまう。意味がわかればこの宗教が持ってるポテンシャルがもう少し伝わる気がするのに。ま、小僧として言いたいことは山ほどあるが今日のところはこの辺で。

神仏

「卯月・産月浅間展覧会」(すでに大の字とれてる)は基本的にはここ数年取り組んでいる作品シリーズを出展する予定だが、そうは言ってもナニカ新作をと思い、告知フライヤー用にと本展タイトルにちなみ「浅間大菩薩」のイメージを描いてみることにした…が、日程を現実的に直視するとおそらく展覧会初日に下図が完成されているかどうかというところだろうな。そもそも下図の展示って本画が横にあってこそだよね、下図だけ展示してたら明らかに制作間に合いませんでした…て開き直り?ま、それもいいか、なんでもきっかけですもんね、やるだけやってみよ。

ところで今回の浅間さん、龍に乗ってますんで「騎龍浅間大菩薩」ということになりますね。先日もlogに記しましたが本地垂迹により一応Buddhismキャラな感じですが本来は浅間大神=コノハナサクヤヒメなわけで、そもそも神道世界なわけですよ。いや一般的にはね「神仏」なんてひとくくりにしちゃいますけどね、それって若干ムリがあるかなと。Buddhismの場合は布教活動(凡夫衆生に理解させる)という大前提がありますからね、その仏教世界をかなり積極的にビジュアル化してよりわかり易く努めてきたわけですが、神道の場合は気配を「感じる」世界でしょ。神像というのもなくはないが、普通の人がご神体を視覚的に受け取るということはまずない。

また仏教では特に宗派によっては煩悩即菩提なんて言葉もあるように不浄なモノほど救われたりしますが、神道では逆に精進潔斎などといって徹底した清らかさが求められたりする。禊ぎですね。

だからさぁ…ホントは神域に手を染めることへの躊躇はあったのよ…。ま、なんでもチャンプルーにしちゃうのがニッポンですから、一応以上承知の上で神仏習合させていただくことに。考えてみりゃそもそも天津神の子孫としての天皇自身が鎮護国家を理由に自ら仏教伝播を図ったわけだからさ、いいよね(って比較対象が合ってない気もするが)。ただやっぱなんかBuddhismキャラ描くときより緊張する…なんでだろ。どことなく自分の持ってる不浄さにやましさみたいの感じてんだろーな…しゃーないけど。

でも実はこれに先立ちAMATERASUも描いちゃってんだな、、、夢にビジュアルでてきちゃったんでつい。ちなみにこの菩薩図、この後画用紙を継ぎ足しつぎたしでイメージサイズをますます広げるので、完成したらかなり大きな作品になっちゃう。

九相観

ワークショップの最後にその日僕が買ってきた松井冬子の画集をみんなでみた。

彼女の画集を求めて本屋に入ったのではない、ホンの時間つぶし。だいたい僕は怖がりなので、ああいったネガティヴなビジュアルは苦手なのだ…なのに買ってしまった…。しかも2011年・横浜美術館で開催された展覧会の図録も含めて2冊も。

なんて恐ろしげな絵を描く人だろうと思っていた…はずなのに自然と手がでて不思議と穏やかな気持ちで、その腑分けされた若い女性のカラダも幽霊の図版も、どこか淡々とめくっていったようだ。そしてそれらが仏教の「九相観」に想を得て制作されているものだということも初めて知った。

「九相観」は「九相図」という、死体が朽ちていく経過を九段階にわけてリアルに描いた絵画を観想することで、修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行であるのだが、この件に関しては実は例の「明恵 夢を生きる」の中でも触れられていてずっと気になっていたのだ。

人の死体のリアルな図像を見て人間の「欲情を除かしむる」などというチト変態的なイメージトレーニングを行うのはもっぱら男性の僧であったはずなので、僧たちは自分の死に対して観想するのではなく、若く美しい女性の死(九相図のモチーフはそうなっている)に対して観想する。生前の女性が美しければ美しいほど、その後の変化はよりショッキングな印象として刻まれるわけだ。

人のカラダなど所詮タマシイの入れ物と思えれば平然と眺められなくもなさそうだが、きっと何か故あってそのカラダをもらい、この世に生まれ、それを駆使して何かを成さんとする限りは、それを不浄・無常とはなかなか割り切れるものではないな。ヒトに触れれば温かいのだ。

僕はちょっとした理由があって、ハタチくらいからできるだけポジティブな絵を描こうと心がけてきた。その気持ちは今も基本的には変わってないと思っているのだが、自分でも気づかないほどに微妙な変化があるのかもしれないな。考えてみればポジティブだネガティヴだなどという単純な括りでは収まらない想いもあるだろう…が、意外と世界はやっぱりシンプルかもしれない…一周まわればそんなもんだ。

ただそうは言ってもここで僕が今、この作家の絵に出会う一連の結びの理由はあるような気がしないでもない。彼女はもちろん多くの研鑽をつんで絵の上手い人ではあるが、あれらの絵はおそらく技術だけでは描けまい。「描ききる」という強い意思、あるいは「描ける」と信じるココロが備わっているのだと思う。

というわけで僕は件の作家の絵を受け入れるのにかなり時間を要したのだけれど、驚いたことに引かれるだろうなと思ってた研究生諸君は意外とあっさり許容した様子。「オォ〜」「キレイ〜」「カッコィィ〜」みたいな…。へぇ〜そうなんだ…ふうん…。

ゆめのふち-の続き

白洲さんのと同時に読み進めてるのが「明恵 夢を生きる」(河合隼雄・著)。こちらの方も同性ではありますが白洲さんとはまたちがったカタチの愛おしさをもって名僧の夢世界に挑んでいる気配あり。もっともこの二人この件がきっかけかどうかは知りませんが交友関係にありますね。

河合氏の著作・対談集などは若干拝読しているが、ココロと向き合う仕事柄か宗教(特に日本人と仏教)に関する著述はかなり興味深く、また自分自身そう言った趣向の文脈に特に偏って出会っているフシがある。なので実は彼本来の研究テーマである分析・臨床心理学系(ユングとかさ)の本はほとんど(ウソつきました一冊も)読んでない…が、そうは言っても意識・無意識の深遠のこと、そしてつきつめれば魂の話、感覚的にソチラの方面もフムフムとなんとはなしに勉強になるんだなこれが。

さて、本著作で氏は明恵の夢世界に分け入る前に彼の仏教史における立ち位置を確認する論を展開している。その中で「鎌倉期に次々に現れた祖師たちは、仏教におけるある一面を切り取って、先鋭的なイデオロギー的教義を打ち出して独自の宗派を形成していった…」と。宗教では特にありがちだが「これが正しい」と真理を説けば「これ以外は誤り」と他をラジカルに攻撃せざるを得ない。イデオロギーとはよく政治的観念の主張として使用されるが言われてみれば宗教にもよくあてはまる。そしてこうした明白な主張は人を惹き付け、善悪・正邪の判断基準を与え、その時代の変遷・選択の記録が歴史として残る…というわけだ。これはとてもわかりやすい。

一方、この範疇におさまらないのが明恵である。というか彼も含めて前述の祖師たちが勤めて流布せんとした「仏教」そのものが本来実はまったくイデオロギー的ではなく、それそのものは多分にコスモロジー的性質を持つものであると著者は言い切る。これも腑に落ちる。人間の存在などそもそも矛盾に充ちたものだと…存在そのものに善悪・正邪を孕み、仏教こそはまさにそうした存在を踏まえてそれでもなお生まれた宗教ではないかと、氏は問う。

コスモロジーは包括する。イデオロギーは切り捨てる。

自分という存在と深く知ろうとするなら生に対し死、正に対し悪。その受け入れがたき半身と向き合う恐怖に立ち向かうこととなるわけだが、それさえも包み込んで多くの矛盾と共生していく姿勢がコスモロジーを形勢するのだと。

明恵が「何も興さなかった」わけがわかるような気がする。

コスモロジー…その歯切れのよくない世界がなんとなくおもしろソーじゃない?

ゆめのふち

正月以来が然「夢」というものに興味津々なわけだが、かの世界に深く旅に出ようとするも未だその縁にとどまり深遠なる無意識界をおそるおそるのぞいてみている…てところだろうか(てか、忘れちゃうんだよねーすぐ…)。

きっかけは先にも記した明恵という人であるが、この件についてまず最初に読み進めた一冊が「明恵上人」(白洲正子・著)。で、この白洲さんて方、案外イイひとなんじゃないかなと…(失礼)。なんかさコワソ〜なおばはんのイメージあったのよ。ま、能に造詣が深く骨薫る世界を愛でる嗜好や、そのそうそうたる交友関係などをざっとさらっただけでも、そりゃフツーに近寄り難い空気を醸し出しますわね。

ただこの著作について言えばよい意味で文体がとても中庸で、取材したことや想いに誠意が感じられ、なにより分かりやすい。テーマに拠るのだろうか、別な著作を読んだときはさほど感じなかったのだが。おばはんきっと上人に惚れちゃってたのかもな。言葉が初々しいというか瑞々しいというかさ。そんだけ明恵さんステキなひとなんですよ、たぶん。

「明恵が信じたのは仏教ではなく、釈迦という美しい一人の人間だったといえましょう…」

彼女の言葉より。

ふしぎな雲、雪はほとんど融けました。

描画完成

ま、こんなもんですかね。なんとか間に合いそう。来週早々上京しお軸に仕立ててもらいます。

この「二天背合圖」実は弥勒さんのお父さんとお母さんです。知ってました?弥勒菩薩にちゃんと父母がいらしたこと、いやこれ過去の話ではなく、あの有名な釈迦の没後五十六億七千万年後の未来の話。父…「修梵摩」母…「梵摩跋提」の子として現世に生まれるということだそうですよ。

そもそもなんでこの絵を描こうかと思ったかというと2/8からのミラボオ企画展に企画担当から時節柄、雛の作品をと依頼されたものの、おひな様をつくるという行為に全く内発的衝動がわき起こらず、仏画でいい?と了解を得てという次第。ただその時点で未来の弥勒出生の秘密など知るよしもなかったが、ちょうど「bodhisattva弥勒」を描きつつあったその頃、件のエピソードを知るに至り、ではまずはお父さんとお母さんからということにあいなったわけサ。

Revoltech BUTSU

買っちゃった〜! 

リボルテックタケヤシリーズ「持国天」(KAIYODO)

仏像を可動させて好みのポーズをとらせる…という前代未聞のコンセプトで制作さてれてます。ロボットやヒーローものフィギアで関節部を自在に可動させるリボルバージョイントが20ヶ所以上組み込まれており、本来の基本様式を超えた変形アクションポーズが可能というわけです。例えば写真の持国天さんは右手に(げき)という槍のような武器を持ってるわですが、たとえば無手にして様々なポーズをとってもらったり…とか。

仏像は時代が古いほど直立的なものが多いのですが、鎌倉期になってくるとミケちゃんまっさおな感じの写実的西洋彫刻風なブツに変化してきます。慶派の仏師たちももしこのリボルバージョイントの技術を習得していたならおそらく動く「新仏像」シリーズを制作していたことでしょう。たとえば東大寺南大門の金剛力士、週一でポーズ替えとかサ。なんかワクワクしてきません?。

それにしても小さいながらこの邪鬼さん…なかなかの踏まれっぷりです。

紙本着色

だいぶできてきた。このあとドーサひいて箔貼って主線描いて…。

そいや“夢”とちゃんと向き合ってなかったな(ふつうそうか)。人生1/3くらい損してたかも。

明恵

「あきえ」ではない。「はるえ」でもない…だから女の子の名前ではない。「みょうえ」お坊さんの名前である。空海、親鸞、日蓮、西行…と、bow-san booksをなんとはなしに読んできたわけだが今回はこの方にハマりつつあり。とはいってもこのひと、日本的霊性が大きく活性化した鎌倉期にあって先に上げたbow-sansの内、親鸞、日蓮などは言うに及ばず法然、道元などなど名僧と言われる人々が名を残す中、特に新しい宗派を立ち上げたわけでもなく、現在に至るまで彼の教えを伝え続けるような一派が徒党を組んで残っているわけでもなさそう。でも先の“ナニかを成しとげちゃった”人たちとはまったくちがったタイプの人間的魅力の持ち主っぽいのよ。

樹上座禅像」なんかこのインパクトのない感じ、よいでしょ。普通頂相図などは威圧感・存在感をもって良しとするところだけれど、このひと履いてきたきたゲタをぬぎ捨て、二股に分かれた松林の木に座っちゃってます。お数珠もそのへんにひっかけて。あまりにも周囲と一体感ありすぎで、剃り上げた後頭部あたりから今にも栗鼠などのぼってきそう。

こんなこと言ってます「我は後世たすからんと云う者にあらず。ただ現世にあるべきようにあらんと云う者なり」。前半は当時一世を風靡していた浄土信仰とはとても遠いところにある言葉ですねぇ。後半もなんかチカラがぬけててイイ感じ。一宗一派を成さんともせず、大寺院を建てようともせず、特に弟子もいらないといい…それでも人を引きつけるなにかもってる不思議なオッチャン。

その不思議キャラを今に伝えてるのが「夢記(ゆめのき)」…

しばし彼の夢世界を探検してきます。