Jin Nakamura log

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DMはだいぶ前にできてたんだけどまたまた告知が遅くなってしまいました。

T-shirt50 JIN NAKAMURA EXHIBITION 2017
2017,6月6日(火)→ 6月12日(月)10:00am→5:00pm
四代目・町家ギャラリー「伊助」
〒602-8463 京都市上京区元誓願寺通り浄福寺西入革堂町447 tel075-451-5303
(千本今出川南へ二筋目東へ内藤医院手前)
●市バス〈千本今出川〉下車(6、10、46、50、51、55、59、101、102、、201、203、206)

多彩なアート表現活動を続けて30余年。美術家ナカムラジンの
今回描き下ろし手描きTシャツ50点。
オシャレでキッチュな、世界で一つだけの貴方のjin’sTシャツを
是非どうぞお選びくださいませ。
…..
と、DMには書いてある。

なわけでこの度Tシャツ50枚描きました。もはや修行か思われるほどの勢いで慣れない綿の生地に描き続けたわけですが、それを後輩の画家にドヤ顔で話したところ「50枚くらいじゃ修行っていわないんじゃないかなぁ…」て。こいつぅ〜…俺だってナー、日々あんなことやこんなこと、そんなことやどんなこと…しながらの50枚ぞ!と一瞬反論に転じようと思いましたが、ちょっと冷静に考えてみると、確かに。修行ってのはそんなんじゃないか。かの空海は室戸岬の波打ち際の洞窟に籠もり虚空蔵求聞持法にてその真言を一日1万回を100日間計100万回唱えることで尋常じゃない記憶力を得たというし。桁がちがうかたかが50枚と謙虚な僕は納得。ま、されど50枚。それはそれで自分的には多少の発見やら面白みも見つけたりして今後はTシャツ作家として暗躍するのも面白かろうなどと一瞬よからぬことも考えちゃいそうでしたが、これ以上引き出し増やしてどうすんの。基本的にこれからは引き算でいこうと思っていた矢先なんだからさ。ということでこの度限定のナカムラTシャツ、夏本番直前のしっとりした京都でお楽しみください。
陶器とか本画作品も少し持っていきます。
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Debut

油や年間パンフレットが校了となり近々配布となります。今年のオープンは4月23日(土)から。例年にも増して盛りだくさん、内容も充実となっております。是非おでかけください。

さて今年の表紙を飾るのは知る人ぞ知る…気づいていた人は気づいていた…見えてた人には見えていた…「油小僧」です。もともと油やには何かしら気配はあったわけですが、“まっくろくろすけ”みたいに人の出入りが増えれば増えるほどそういった類いのモノの気が少しずつ消えていきつつあるなかで、それでもなんとなくいるような…いやどちらかというと、いて欲しい的なキャラなのね。

ま、ひらたく言うと妖怪なわけで、一般人はふつう見えないわけで。ということでここ数年、女将の方から早くフツーの人にも見えるように視覚化しなさいとのお達しもあり、ついに開業5シーズン目にしてお出ましとあいなりました次第。

今回視覚化担当してもらったのはArt Project 沙庭でも企画させていただいた画家・飯島洋子氏。日頃得体の知れぬモノをチョイチョイ目撃してるらしいのでチラッと矛先を向けたところ思った通りわりとすんなり生み出してくれた。(本人は産みの親は油やにいて自分は育てただけだと言っている)

実は小僧については今まで何人かに視覚化を試みてもっらていたのだ。自分でもトライしてみたのだがなんかとてもヘンテコな絵になったような記憶がある。まあとにかく今回オフィシャルな容姿としてはこれで公認としてよかろうが、それはそれとして人それぞれの小僧がいていいと思っている。現実世界においてであっても人はそれぞれ同じモノを見ている気でいるが水晶体を通し脳で画像処理された映像は個々に当然差があるはずなのだ。あなたが見えているように僕は見えていない。だれも他人の脳の中をのぞくことはできない。

同じ風景やモノを描かせても人それぞれなのは単純に画力とか個性だけの問題ではないような気がする。師匠の絵をみるといつもそう思う。この人にはこう見えているのかと…。

話はそれたが、とにかく小僧はデビューしました。かわいがってやってください!

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footmark on snow

土曜日の大雪はこうなった。

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そしてこれをしたかったのだ。

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で、明日も降るのね…。

スノーシュー欲しくなっちゃうな。

debut song

以前にもあったがしばらくblog放っとくと(FBはちょくちょくupしてたんだけど)本人死亡説とまではいかないまでも入院説とか一部からもれ聞こえてきたりするんだ。確かにこの夏は過酷ではあったかもしれない…が、しかし、我が住まうところは山麓ですよ。標高1000M近い避暑地ですよ。真夏にココより快適な場所などおそらく北海道あたりを除いてはまずないでしょう。そんなところで体調を崩す理由はとりあえずなく、あるとすれば夏のバカンスとか称してのこのこ下界の観光地などに遠出しては、慣れない暑さにやられ疲れ果てて帰ってくる…てなパターンのみ。というわけで夏場はなるべく所定の標高を維持し、移動も高低差100M程度と決めております、のでまあまあ元気にくらしているというわけです。以上近況報告まで。

さてThe Bon festivalを期にちょっと宗教について考えてみる、2回目。
我が島国は地球規模でみてもとても自然が豊かな国だからそういったモノからスピリチャルな影響を多分に受ける感性が古来から強い。宗教もいつしかそういった土壌のうえに多くのファンタジーを視覚可したきたように思われる。結果、いつしか日本人は浄土や地獄をリアルに思い描きそして気にするようになった。ではなんでそうした現世という生きてる「今」ではない世界=死後の世界を気にし出し、またそれが仏教的イメージとして一元化されるようになったかというとやはり浄土教系の影響が非常に大きいのだろうな(逆にいうと他の宗派には本来そうしたイメージからは遠いところにあったはずだが…実際には江戸期の檀家政策以後現在に至るまでにやはりその一元化が進み過ぎた観がある)。
平安末期、時は末法の世。混乱した社会のなかで人々は貧困・飢餓・疫病などの尋常ではない苦悩にみまわれていたころ、その時代に育った法然を祖師とする系譜からスパースター親鸞がいずれ浄土真宗を興し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし、易行念仏による救済を広めた。阿弥陀仏は西方浄土(人にとっては現世ではない死後の世界)にいる如来格の仏である。この宗派の大きな特徴はネガティヴな表現をすればスタートラインとして、生き抜くにあまりに過酷すぎる今をあきらめるというポイントにある。現世をあきらめて来世(死後の世界)で浄土に導かれ阿弥陀仏に救われよう…という解釈だ。そしてそこへの到達方法として念仏(ナムアミダブツ)という7語称名を唱えるだけという画期的なメソッドを打ち立てた。国家宗教から個人の救いへ。難解から平易へ。民衆の賛同を得られぬわけがない。一切の哲学が排除され、死と引換えではあるものの、まさにある意味命がけの救済という利益がしぼられて非常にわかり易い。
改めて本来の仏教について思いをめぐらせば功罪はあると思う。が、それはともかく必要な時代であったのだろうな。現代、如何に生きにくい世の中といっても「♪僕は食うことに困ったことなどない…し、マシンガンを打ったことなどない…」(by 斎藤和義/僕の見たビートルズはTVの中)だもの。

で、まだつづく…

ンとソとシとツ

既にお気づきの諸兄も多かろうと思いますが、8/22投稿blogに掲載の「ホンモノ市」タイトル中の「ン」は「ソ」ですねこれ。なんかヘンだなーとは思ってたんですよね。“はらい”の方向が上から下ではなく、左下から右上でないといけないわけです。恥ずかしながら実はこういった間違いは以前にもあり、就学以前、名前の「ひとし」くん(僕をそう呼ぶのは今では親類縁故関係だけですが)を片仮名で本来「ヒトシ」と表記するところを「ヒトツ」と書いていたようで、そこのところをオトモダチからつっこまれ頑是ないナカムラ少年はいたく傷ついたものでした。でも今思えば平仮名で書くと「ひとつ」くん…only-oneみたいでそれはそれでいい名前だったかも。いいかげん日本人やってきていまだにこんな間違い(普通に書く時はさすがに間違えませんが)をするなんてぜったい前世はニッポンファンの異邦人だったと確信してる次第也で候。

情報公開

非常事態につき、以後しばらく当ブログを関係各位の個人情報、動向の公開情報の場として活用いたします。中村はとりあえず谷中・板東宅にて無事に待機中。今のところ帰宅のメドはたっていません。

追加情報。昨日都内にて同行していた神林氏は帰宅途中に地震に遭遇するも、バスにて無事帰宅。今朝連絡がとれた町田氏は晴見の事務所で無事待機中の様子。

untitled

師走に入ってから読み続けていた「LOVE」(古川日出男)。疾走感のある文体であったが諸事情でいつにも増して遅々とページはすすみ、結局年内に図書館には返しそびれた。なんとか読み終えたものの年始開館まで読む本がなくなってしまったので掃除の途中(大掃除…中掃除くらいかな…を今頃やっている)で見つけた「日本の歴史をよみなおす」(網野善彦)を読みなおすことにする。つい最近斬新な歴史観で話題を呼んだ本だったような気がしていたが既に20年も前の初版であった。疾走する速度にはついていけず、最新の歴史観もすでに過去に流れ去るのか…。タイムラグ生活も悪くない。何よりここ数ヶ月我が家にはテレビがない。べつにストイックな生活を目指しているわけではないのだが、おそらく20年モノのブラウン管テレビはすでに光の3原色を映し出さず、地デジ化どころかラジオ化している。それならちょうどよい頃合いと買い替えようとも思ったが、居住地周辺の立ち木たちがその20年間に節操もない成長をとげ、受信に充分な地上波をさえぎり、どうやら僕らは“地デジ難民”ということらしい。どうせエコポイントやらも終わりらしいし、潔くテレビ無し生活を宣言してもいいのだが、どうしてもみたい番組はケータイのワンセグの超ミニ画面でみているあたりがまたイジマシイ。たまたまのぞいた家電量販店で3D大画面のTVなどを目にするとその迫力に感動してしばし足を止めて本気で見てしまう。昭和初期に街頭テレビでプロレスに夢中になったオッサンたちの気持ちがいたいほどよくわかる。そしてまたそんなプチ不便な生活も悪くない。

朝から山の端のソコココに積乱雲が立ちのぼる日々。動作も思考も緩慢になり…という理由で自身のなまけ癖だけが際立つ今日この頃。毎日さもないことを書き連ねるからこそのブログなのに、間があけば空くほど何か大層なことを記さねばと妙なプレッシャーに逃げ込み更新を怠るペースは一週間。 Movable Type Proのブログ制作管理画面を久しぶりに開いてはみたものの、特筆すべきものはなく…そうは言ってもこのまま夏の盛りをやり過ごすというのもまた芸がなく、こうしてウダウダと意味なき時候の挨拶の如きを書き連ねているわけです。というわけで本日はホントに久しぶりの挨拶のみにて失礼する次第…。

上京

明日からの個展のため本日選挙を済ませた後、東京です。 詳細は後日報告。

古書店経営

活字中毒…というほどではないが読みかけの本が傍らにないと落ち着かないカラダになってきた。勢い図書館通いも頻繁になる。ちいさな町の図書館なので蔵書数がさほど多いわけでもないが購入リクエストが可能なので助かっている。最近は数人のカウンターの職員さんとも顔見知り(特にメリットがあるわけではないが…)。やはりこいう仕事に就く人たちは皆本好きなのであろうか。ちょっとフェチっぽいが自分も印刷された紙のニオイとかは結構好きである。年をとったら「はてしない物語」の古書店主、コレアンダー氏(イニシャルKKK)のように日がな一日埃っぽい紙束に埋もれ、気難しそうな顔をして暮らすのも一興か。