Jin Nakamura log

霧欝

14305

遠近法の風景の先に消え行く白い闇…。

イキモノとしてカラダに余分な程の精力に満ちあふれてた思春期の頃ならば、例えばポツポツと陰鬱な呪文のように降り注ぐ雨音にさえ健全な哀愁を感じたりしたものだ。事実僕は10代の頃そういう音を発生する装置を作ったことがある。基盤にダイオードだのトランジスタだのを意味不明な回路にハンダで括り付けイヤホンに出力して聴くのだ。眠れない夜にはオススメの装置だったらしいが、今思うと全く余計なお世話、いかにも変質的な一品にも思える。

体力的にとうにピークを過ぎてるこの身にとって自然界に存在するポジティブな要素ならすべて取り込んでも生き抜いてやる…というほどの覚悟なれば、やはりお天道様の光などはありがたい。必然、小糠雨だの濃霧だの類いは気がめいるだけで no thankyouということになる。昔爺様が毎朝お日様に向かって柏手を打っていた姿を思いだし、そんなことに妙なシンパシーを感じる自分がいとをかし。

先日の雪欝が解消されつつあったところに、このところの若干の気温上昇で雪にならない湿り気は終日深い霧となって山麓にとどまる。しかも未だ解け残った尋常ではない量の残雪が風景をより白闇に落としこんでいる。

…要するに元気がないのだ。

それでもと、気をとりなおして描きかけの「弥勒」のために絵筆をとれば不思議なもので少しだけチカラが湧いてくるような気がする。タマシイとカラダは連動してるのだろうからそうい現象もあるだろうし、もともとアートにはそういう刺激性があるのかもしれない。

なんでそんなものを手に取ったのか思い出せないが「N-ART #アート」という2008年に長野県在住の15名のアーティストをインタビュー形式で紹介した冊子を書棚から引っ張りだし眺めていた。中綴じ冊子なので当然背文字タイトルもないから今日何故それに手をかけたかほんとに不思議なんだが。

副題は「アーティストは長野で食べていけるのか?」とある。まあずいぶんと興味本位というか不躾なテーマであるが、最近はこの業界のメジャーな作家やキュレーターなどもこぞってアートとお金を話題にした本がよく出版されているので、そういう意味では地方発の小冊子だが目のつけ所は悪くなかったのかもな。

インタビューはこんなだ。

Q.今までの作家活動で辛かったことを教えてください。

友人の画家・小山利枝子氏はこんなふうに答えている…「…お金を回していくことは大変だったし、泣いたこともあったけど…その度「嫌だったらやめればいい」と自分に言い放ってきた。…もちろんやめる気になったことは一度もありません。画家の仕事は全部自分のためにやってるわけですから。辛いなんて思ったら罰が当たる。描くのをやめなきゃいけないとしたら辛いけど、やめてないから辛くない、これでいいんです。」

同じく版画家・田島健氏はこの質問に…「あんまりないなー。あ、千葉に住んでるときに、真夏にパンツ一枚で仕事してたら膀胱炎になって苦しかった(笑)。

で、僕ナカムラはなんてこたえたかというと…「ないですね。経済的なことを話しだすときりがないけど、まあそれは別にいい。」

だとさ。特に理由もないのになんとなく沈んだ気分の日、小山さんの言葉に気持ちが奮い立ち、田島くんのつぶやきに笑い、6年前の自分の言葉に「あ、ちっとも変わってねーや…」と落ち着きを取り戻した。これでいいのだ!

最後に長野でこちらも粘り腰で僕ら作家の後押しをし続けてくれている、やはり友人のガレリア表参道オーナー・石川利枝氏はこう結んでいる。

「…表現することを生きる糧にする人は、自分の世界により深く降りていくことでしか、いい表現にはたどり着けない。それがその人にとっての地獄であり天国であって、一人で降りていくしかないんです。疲れたらいっしょに飲んであげるから(笑)頑張って!」

そういうわけなので今度また一緒に飲んでもらうか。

そしてもひとつ、必要なものは必要なときに自分のそばにあることを改めて感じた日。

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