ワークショップの最後にその日僕が買ってきた松井冬子の画集をみんなでみた。
彼女の画集を求めて本屋に入ったのではない、ホンの時間つぶし。だいたい僕は怖がりなので、ああいったネガティヴなビジュアルは苦手なのだ…なのに買ってしまった…。しかも2011年・横浜美術館で開催された展覧会の図録も含めて2冊も。
なんて恐ろしげな絵を描く人だろうと思っていた…はずなのに自然と手がでて不思議と穏やかな気持ちで、その腑分けされた若い女性のカラダも幽霊の図版も、どこか淡々とめくっていったようだ。そしてそれらが仏教の「九相観」に想を得て制作されているものだということも初めて知った。
「九相観」は「九相図」という、死体が朽ちていく経過を九段階にわけてリアルに描いた絵画を観想することで、修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行であるのだが、この件に関しては実は例の「明恵 夢を生きる」の中でも触れられていてずっと気になっていたのだ。
人の死体のリアルな図像を見て人間の「欲情を除かしむる」などというチト変態的なイメージトレーニングを行うのはもっぱら男性の僧であったはずなので、僧たちは自分の死に対して観想するのではなく、若く美しい女性の死(九相図のモチーフはそうなっている)に対して観想する。生前の女性が美しければ美しいほど、その後の変化はよりショッキングな印象として刻まれるわけだ。
人のカラダなど所詮タマシイの入れ物と思えれば平然と眺められなくもなさそうだが、きっと何か故あってそのカラダをもらい、この世に生まれ、それを駆使して何かを成さんとする限りは、それを不浄・無常とはなかなか割り切れるものではないな。ヒトに触れれば温かいのだ。
僕はちょっとした理由があって、ハタチくらいからできるだけポジティブな絵を描こうと心がけてきた。その気持ちは今も基本的には変わってないと思っているのだが、自分でも気づかないほどに微妙な変化があるのかもしれないな。考えてみればポジティブだネガティヴだなどという単純な括りでは収まらない想いもあるだろう…が、意外と世界はやっぱりシンプルかもしれない…一周まわればそんなもんだ。
ただそうは言ってもここで僕が今、この作家の絵に出会う一連の結びの理由はあるような気がしないでもない。彼女はもちろん多くの研鑽をつんで絵の上手い人ではあるが、あれらの絵はおそらく技術だけでは描けまい。「描ききる」という強い意思、あるいは「描ける」と信じるココロが備わっているのだと思う。
というわけで僕は件の作家の絵を受け入れるのにかなり時間を要したのだけれど、驚いたことに引かれるだろうなと思ってた研究生諸君は意外とあっさり許容した様子。「オォ〜」「キレイ〜」「カッコィィ〜」みたいな…。へぇ〜そうなんだ…ふうん…。