Jin Nakamura log

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僕の使用してるオープンソースのブログソフトウェアWordPressの投稿テンプレートにはタイトルを入力する枠があるが、特になにかのっぴきならない情報や提言を発信しようとしてるわけでもなく、また日々日常に毎回タイトルがつくような劇的な暮らしがそこにあるわけでもないので、本文以前にそこで留まることもしばしあり。ただそんなどうでもよいようなことにあえて大層なお題目をくっつけてみるのもまた面白くもある。

とは言っても僕ら作家はナニカシラ産み出したモノにほぼ必ず題名をつける習慣があるのでフツウの人よりは、そういうことに慣れているとも言える。ま、よほど困ったときは[untitled]かなんかになるのだが。

昨日の当logのタイトルはなんとなく「再開…」としたのだが、よくよく投稿履歴をみてみると10日ほどお留守にした程度であった。流れゆく日常を言葉として整理することに固枯渇していたのかも。いずれにしてもこの日記のようなモノは内容の深さなどよりも、とりあえず毎日記することに意味がある。一見意味のなかったような日常に大げさなタイトルをつけて今日一日生き抜いた感謝みたなものに昇華できればけっこう楽しいじゃない?…みたいなさ。

絵を描くこともいっしょだな、質より量。絶対量はセンスもアイディアも技術もすべて呑み込んで…なんて言ってるヒマがあったらツクルか…。

再開…何度目かの。

しばらく文字と遊んで突っ走ってたかと思うと、ふとしたきっかけでダウンしてぱったり…なんてたまに。今回の中断は理由はやっぱ忙しかった〜につきるかな…ってそう言うことを理由にしたくはないのだが。それにしてもギャラリーとミュージアムでの個展同時進行+間髪入れずに境内アート10周年+さらにその1w後「油や」今年度オープン…てねぇ。そして休みなしのGWは進行中であり、その間にしかも兄のように慕う叔父が他界し…あ〜なんて春なんだ。

春寂寥という言葉があるが咲き誇る命とウラハラの寂しさを想う季節…になってしまう年が過去にもあった。生きるということは楽しくそしてセツナイ。

マジでカラダはけっこうキツイが今のところノラリクラリとやり過ごす。なんとかこのまま行けそうだが人生いろいろ…どこでどうなるかはだれも知らない。ここに来てやるべきことはさらに山積み(これでもだいぶ整理して来てるつもりなんだがなんか増えちゃう)だがとりあえず行けるとこまでいってみようか。なんかあったらそんときはそんとき。

そいや境内アートで「算命術」という占いを人に勧められてやってもらった。

「じっとしてられませんね。」

「学ぶのが大好きです。」

「芸術の仕事が向いています。」

「社会貢献をします。」

「たまに深呼吸をしましょう。」

「人に感謝しましょう。」

了解!

そんな感じ。

今回のblog中断中Face Book上ではしばしば情報発信してたが、今後はやはりできるだけコチラにシフトしようと思う。一応FBにはシェアしてのせるけど。

初春の句

「清濁を合わせて森の水ぬるむ」

三寒四温もほどほどにしてよ〜てな春ですね。その繰り返し訪れる「温」の気配を最初に感じた日の句です。冬の寒気に閉ざされていると「匂い」というものを忘れそうになります。-10℃くらいが普通の最高気温の頃、一気に+10℃まで上がった日がありました。我が家の周囲の森(規模的には林かなあ)から久しぶりの「水」の匂い。昨年の秋あたりからそれこそいろんなモノを溜め込んで、解け合って混ざり合って…でもそれは都会の雑踏で感じるような腐臭ではなく。複雑なんだけど、けしていやな匂いじゃない。「あ〜コレコレ…森の匂いってこんなだったよな…」って思い出す。正しく朽ちていくものはイイ匂いがするんじゃないかしら。

 

「きらきらの靴底重し春の土」

春の土ってこんな感じでしょ。今年はだいぶ雪が残っていたので何度もいわゆる農道を外れてレタス畑の中をズンズン歩かせてもらっちゃいました。その雪が融けると、もこもこにひび割れた畑の土が顔をだし、さらに温かくなると湿り気のある柔らかな土にもどります。足下はすでに長靴とかブーツではなく軽やかなんだけど、もうその土では軌道を逸して畑の中は進めないのです。

 

「外泊の春の夜ぬるし茶パツ猫」

小丸ちゃんの先代のミーちゃん(ウチでは代々たいがいのネコはとりあえずこんな名前)のことです。もともと外ネコだったので家外、出入り自由の茶トラちゃん(だから茶パツ猫)。朝帰り、2Fのベランダから僕の枕元のサッシをガリガリ。ガリガリすればちゃんと開けてもらえる思ってるところが憎たらしい(ちゃんと開けるんだけどさ…眠いのに)。ちなみに6ヶ月で発情期に入った早熟コマさんはそろそろ避妊手術のため病院お泊まりにいきます。

愈々弥生

いよいよやよい(舌噛みそうだな)。少しだけ寒さがゆるんできたかと思うと今度は花粉の心配などしたりして、まったく因果なもんだ。加えて昨今は西からは耳慣れぬpm2.5だとかが目にはさやかに見えねども漂ってくるわ、あたりまえなんだろうけど震災以来毎朝の新聞からは放射線量の観測情報欄もいまだ消える気配もないわで…。

このアキツシマはもともとそういったものとはほど遠く清浄な霊気に満ちていたはずなのに。もちろん大陸からの風も不浄なモノばかり運んできたわけではない。かの大国からは語り尽くせぬほどの多くを学んだろうし、僕ら自身も何割かはその遺伝子情報を刻んだ末裔だったりもするわけで。しかしそこに住まい暮らす人々の属性はそいういった民族性にあまり依拠しないと思っている。自分の来し方を想えば遥か風の沸き立つ土地へのなにからの懐かしさを感じなくもないが、やはり今の僕らのココロとカラダはこの島の水と空気と霊性でできあがってるんだと思う。もっと大切にしなきゃいかんのだろうなココを。

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さて急遽決定した地元ミュージアムでの個展。タイトルをと担当者から言われて…5分考え「卯月・産月(大)浅間展覧会」(うづきうみつき(だい)せんげんてんらんかい)とした。( )内は思案中。できる努力はするつもりだが揃う作品量によってはあっさりカットかも。

「浅間」(アサマ)は「センゲン」とも読む。「朝熊」とも書く。このあたりちょっと調べてみたら「富士山信仰」に行き着いた。荒ぶる神として富士山と浅間山を一体の神として祭ったという説もあるらしい。で、その富士信仰の核となる浅間神社のご祭神「浅間大神」は天照大神の孫、天孫ニニギノミコトの妻「木花咲耶姫」なのだそうだ…フムフム…。で、で、神仏習合・本地垂迹により「浅間大菩薩」と称しその本地は「大日如来」であるとのこと…う〜んそうだったのか〜。

我が住まう山麓と霊峰富士がそんなご縁があるとはね、一度登らんといかんかな…でも下から見てる分にはよいがなんか登ってオモシロそうな山ではなさそうな…。

晩冬

もう弥生三月も近いというのに、どゆこと!?ってくらいに冷気の底に沈んどります。用事がなかったら家から出たくない…が、勇気をふりしぼってちょっと歩いてみた。雪の表面がいったん融けてまた凍ってんのわかる?外はカリカリ、中はフワフワ…って出来のいいメロンパンじゃあるまいし。

晩冬の句会もすでに終了し、初春の投句を待たれているのだけれど、なかなかそんな気分になれないこの数日。と、その前にまずは先日句会の三句をば。

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「白樺に黒葉しげるか寒烏」

「雪道の似合わぬアルファロメオかな」

「雪原にななめに立てる我のをり」

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確か冬至の頃の日の入りは4時25分前後。現在は日の入りの位置もだいぶ北よりの山の端となり、1時間近く日が長くなっている。地球が大きく移動してるのがわかる。

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越ちひろ展に。

どうだった?なんて聞いてはいけない。

「まあ…よかったよ…」なんて言うしかないではないか。

そんなことより、そこに彼女のタマシイの全てがあるのならそれでよいのだよ。

僕の感想などどうでもいいから自分で行って確かめてごらん。

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共時性ということがある。シンクロニシティーとも言うな。昨日漠然とバランスのことを考えていた。自分で言うのもなんだが結構バランスのとれた人間だと思ってる。そしてそれは凡庸を意味するものなのかと、もっと破綻したほうがいいんじゃないかと…など思わなくもない…が、まてよ。それってなんか中間地点に立ってるって意味ではないなと気づくのだ。

「2」という数字が好きなんだよ、たぶん昔から。二つのモノを内在させることが我が身のバランス。欲張りなんだなきっと。昨日のブログを何げなく書いた後、気になってたんだが両性具有はヒトとして生物学的には無理にしろ、モノを生み出す者として、そしてその覚悟として性的両面性は必要なのかもねと。そうは言ってもたとえば髭ヅラの母性なんてもキモチわりぃからほどほどにしとっけどさ。ま、要は心意気の問題ですよ。

+で、共時性ということがある。

明恵は夢の中で得た「二つの柑子」。それは華厳と真言、母性と父性、仏眼と釈迦、心と体、合理と非合理…コスモロジーとイデオロギーってのもあったけ。それらの二元的対立の中で心身を鍛えたと。…今日めくった「明恵 夢を生きる」の数ページより。

+シンクロニシティーとも言うな…

「両面を持って存在すること。女性的であり、男性的。強くて弱い。暴力的で、狂気に満ちていて、優しく、儚く確かな存在。華やかでダークで、生であり死であること…」今日の越ちひろ展、リーフレットに記されていた彼女の想い。

…まったくどいつもこいつも欲張りなヤツらばかりだ…(もちろん自分もね)

10月、ART PROJECT 沙庭+梅田版画工房 協動企画  Lithograph 5 artists 2013で彼女の作品に出会えます(2014にはsolo exhibitionをオファー)。その前に4月20/21日、境内アートにてライブペイントも。ほとばしる絵の具の飛沫など浴びにいかが。

で、やっぱりその前に行っておいで…17日まで。

女時

そいや二天背合圖、こんな感じに仕上がっとります。以前のブログにも書いた通り絵の左右(柱)と中廻し(天地部分)は染織家の岡本直子氏が染めてくれたものだが、彼女、実は本画を見ずにこの橙に染めている。これから来る絵はコレでいいんだと思ったらしい。まったく女性の受信能力には驚かされることが多いな。本来女性の脳はそのように発達してるらしいが逆に男はその能力が劣る代わりに送信能力は高い…オレが、オレが…て感覚かな、よく言えば社会性。さて現代、男性は草食系の皮を被りヒキコモクンのキャラを心地よしと演ずれば、それは数少ないオトコの能力をことごとく放棄したに等しく、唯一女性に勝るのは腕相撲がチト強いということくらいになりさがった…というわけでまったくイイとこ無し。まさに「女時」の時代なり。僕もアーティストで生きようとするならば我が身の中に潜むオンナを磨かねばならない…のかしら、といってもついダンゴムシ拾ってきちゃうしなぁ。

このお軸、17日まで開催の『春を待つ食卓』テーブルウェア展(えすぱすミラボオ)に賛助出品として展示中です。お近くの方は是非。春らしいイイ感じのうつわにも出会えますよ。

Tokyo day〜Nagano day

たまには出先から投稿。
本日はブーランジェリーの長男と受験真っ最中の末っ子の三人で川の字だー。部屋に入ったとたんムッとする男臭であったが5分で慣れた(低みへの順応はカンタンである)。ちょっとだけでも一緒に呑もうとアルコール持参でやって来たが、パン屋は朝が早いし、もう片方も、明日が本命の受験とあって二人ともさっさと寝息をたててる。おかげでチチはヒマを持て余し、独りワンカップを開けながら、とっても打ちにくいiPoneのタッチパネルでカキコ。…て、いくらヒマとは言え、話しが極めてどうでもいい内容だな。

そいやつい先ほどまで劇団の新作のためのブレーンストーミング。テーマが夢だったのには、不思議な巡り合わせを感じた。その中でひとつ、寝るときに見る夢と、望み、希望(I wish…)のソレと同じ表記であることを不思議に思う。英語のdreamもそうなんだよな、なんでなんだろ。
そろそろ打ち込みつかれてきた、
ので今晩はこれまで、明日はまた昼までに長野に戻らねば。

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ここから先は標高差900M(時間差20時間後・日付は同日)ほど、関東平野から山麓に戻ってからの投稿なり。絵巻物でいったら異時同図法ってとこか(なんでも例えればいいいってもんじゃないが)。さて昨晩の疑問に添うと、就寝時の「夢」は「希望」と同義。ならば、うなされるような悪夢にもなにかしらの希望の一端が含まれてるやも知れず…などとますます不可解なことばかり。

明恵の「夢の記」の話題は継続中。で、この夢を記するという行為だが、いつぞや自分でもと宣言してみたものの、これはかなり困難な試みであると最近は感じている。当然だがそんな毎晩啓示的な夢を見るわけもなく、ほとんどが意味不明、あるいは公表するもためらわれるような雑夢(それが雑夢かどうかの判断も難しい)であれば興味を継続させるエネルギーも瞬く間に枯渇し、河合氏の言葉を借りれば「夢というものは覚醒時の意識と簡単につながるものではない」ので要は覚えてらんないのよ。

それを思うと明恵は19才から示寂する直前のほぼ40年間の夢の記録を残してる(しかも解釈付)という事実に驚嘆する。こうした文献は世界的にも希有とのこと。というわけで僕ごときがあっさりなげだしとしても誰も責めてはいけないのだ。

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20代前半の頃、自律神経失調症で入院したことがある。自律神経とは呼吸や代謝、消化、循環など自分の意思とは無関係で生命活動の維持やその調節を行い、絶えず活動している神経である。その成り立ちである生命活動を活発にする働きをする交感神経と、それとは全く逆の働きをする副交感神経のバランスが大きく崩れることで発症するわけだ。

歩きたくなったら足を前に交互に進める。手をにぎりたかったかったら腕をさしだす。眩しかったら目を細める…みんな自分の意思で筋肉を動かしその行為に及ぶが、今から血を流しま〜すとか、胃を活発に動かしま〜すとか、免疫力アップいきま〜す…とか普通はなかなか自在に操れるものではない。ま、中にはそういうのできちゃう人もいるかもだが…そして、もしかしたらそう言う意識も大事なのかもしれないが。

で、その意思・意識の問題である。自らの意思でカラダを制御する…と言ったが、逆にその自分の意思・意識とやらはちゃんと制御できてるのだろうかという疑問もある。「我思う故に我あり」…だっけ?  自我って果たして自分のモノなのかしらね。自分のアタマん中ですべてを決定していると思っている自分は、ホントは自分の中のほんの一部であったりするてなことない? たまになんでこんな行為に及んでるのか説明がつかない…てなことない?

説明理由として外的要因(なにかのせい)になすりつけるのも簡単だが、やはりそこは我が身の未知なる深遠を疑ってみた方が…

それはそうとこのあと上京です。ミラボオ展示に顔出しつつ、その後劇団風の子新作芝居の舞台美術打ち合わせナリ。電車の時間が迫ってきたのこのへんで…。

ゆめのふち-の続き

白洲さんのと同時に読み進めてるのが「明恵 夢を生きる」(河合隼雄・著)。こちらの方も同性ではありますが白洲さんとはまたちがったカタチの愛おしさをもって名僧の夢世界に挑んでいる気配あり。もっともこの二人この件がきっかけかどうかは知りませんが交友関係にありますね。

河合氏の著作・対談集などは若干拝読しているが、ココロと向き合う仕事柄か宗教(特に日本人と仏教)に関する著述はかなり興味深く、また自分自身そう言った趣向の文脈に特に偏って出会っているフシがある。なので実は彼本来の研究テーマである分析・臨床心理学系(ユングとかさ)の本はほとんど(ウソつきました一冊も)読んでない…が、そうは言っても意識・無意識の深遠のこと、そしてつきつめれば魂の話、感覚的にソチラの方面もフムフムとなんとはなしに勉強になるんだなこれが。

さて、本著作で氏は明恵の夢世界に分け入る前に彼の仏教史における立ち位置を確認する論を展開している。その中で「鎌倉期に次々に現れた祖師たちは、仏教におけるある一面を切り取って、先鋭的なイデオロギー的教義を打ち出して独自の宗派を形成していった…」と。宗教では特にありがちだが「これが正しい」と真理を説けば「これ以外は誤り」と他をラジカルに攻撃せざるを得ない。イデオロギーとはよく政治的観念の主張として使用されるが言われてみれば宗教にもよくあてはまる。そしてこうした明白な主張は人を惹き付け、善悪・正邪の判断基準を与え、その時代の変遷・選択の記録が歴史として残る…というわけだ。これはとてもわかりやすい。

一方、この範疇におさまらないのが明恵である。というか彼も含めて前述の祖師たちが勤めて流布せんとした「仏教」そのものが本来実はまったくイデオロギー的ではなく、それそのものは多分にコスモロジー的性質を持つものであると著者は言い切る。これも腑に落ちる。人間の存在などそもそも矛盾に充ちたものだと…存在そのものに善悪・正邪を孕み、仏教こそはまさにそうした存在を踏まえてそれでもなお生まれた宗教ではないかと、氏は問う。

コスモロジーは包括する。イデオロギーは切り捨てる。

自分という存在と深く知ろうとするなら生に対し死、正に対し悪。その受け入れがたき半身と向き合う恐怖に立ち向かうこととなるわけだが、それさえも包み込んで多くの矛盾と共生していく姿勢がコスモロジーを形勢するのだと。

明恵が「何も興さなかった」わけがわかるような気がする。

コスモロジー…その歯切れのよくない世界がなんとなくおもしろソーじゃない?