Jin Nakamura log

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catchphrase

「愛と怒りの仏…愛染明王」。なかなかこんなふうにキャッチフレーズもってる仏さんていらっしゃらないんじゃないでしょうかね。度を超えて愛しすぎると怒りをかうのか…ちゃんと愛さないと怒られるのか…。いずれにしてもこの“怒り”の方向ってのはよくわかんないけどヒトの世の常…愛の裏返しの憎悪みたいな生々しいもんじゃないんでしょね。明王系なので憤怒の形相は定番だけど、この尊格そんな恐ろしげな表情にもかかわらず衆人愛敬を旨とし「愛欲を清らかな菩提心に浄化する」利益ありと。六臂のうち第二手には弓矢を持ってますから、なんかキューピッドに見えなくもない。また第三手左手のみはあえて空拳。その他の手にはすべて何かしらの法具を所持してるのにひとつだけあいてる。できればその手でコツンとやられるよりは優しくナデナデしてもらいたいものですな。ま、せいぜいおこられないようにしときましょ。

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さてキャッチフレーズといえば昭和あたりのアイドルのソレ。こんなところで取り上げるまでもなく検索すりゃ山ほど出てくんですが、ちょっとだけツッコミがいがありそうなの紹介。

「井森美幸16歳、まだ誰のものでもありません」以前TVで、いまだに誰のものでもりません…てつっこまれてて笑えた(失礼ですね)/ちあきなおみ「苗字がなくて名前がふたつ」そんなんでいいの?同じく、ちあきなおみ「魅惑のハスキーボイン」ボイン…て…、なんかなつかしー響きだな…/ピーター「アポロが月から連れてきた少年」宇宙人だったのね/南沙織「南の島からきたシンシア」これは有名/吉田拓郎「荒れ果てた荒野に、太いホースで水をまく」たくろうさんのもあったんだ…ナニ育てようとしてんですかね、ちなみに太いと圧力弱いからお水ドボドボ…/若林加奈「45%妖精」だれか知らんけど、残りの55%はナニ?/ザ・ブルーハーツ「俺たちを縛りつけて一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します」これはキャッチというよりメッセージね/小柳ルミ子「みんなの恋人」フツーすぎ/アグネス・チャン「香港から来た真珠」そういえばそんなんだったような。で、最近ハマってた天地真理さんは言わずと知れた「白雪姫」ですよ。

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ところで件のアマチさん、だいぶヘビロテで聴き込んできましたがやっぱ歌うまいよこの人。中ボーの頃は「けっ!歌謡曲なって聴いてられませんよ…」てスタンスでもっぱら洋楽・プログレ系に表向き親しんでおりましたのでね、カワイイおネエさんだなとは思いつつちゃんと聴いたことはありませんでしたが、改めて聴き込んでみるとこのファルセットは素敵です。なんかいっさいトゲがないというかさ、ふんわか?

もちろん(て言っていいかわかんないけど)歌謡曲だから歌詞になんてほとんど意味ないのよ。でも聴かせちゃうパーソナリティーはすごいな。そういう意味じゃスキャットもプログレも中ボーには意味不明の洋楽も所詮いっしょだったのかもね。ただ同時に聴いてたフォークソング(拓郎さんとか)はメロディーがシンプルだっただけに言葉の意味も少しだけ噛み締めながら聴いてたかも。

何れにしてもホンの一瞬だけカミに愛されちゃってる感ありのアイドルってなんかすごいな、だからツキモノが落ちたときマイクおいてフツーの女の子とかオバサンになるわけよ。平安時代あたりの「今様」の歌い女あたりからそのへんて変わってないんだろうな。

復原国宝仏画

昭和44年、限定3000部で発刊されている。著者は宮原柳僊氏。実は先日の神保町古書市、僕はこの画集に出会うためにそこにいたような…。外箱・化粧箱・桐箱の三重構造装丁でホントだったら開けてみんのとってもめんどくさそうな本だったのだが、なんか気になったのね。

表題に“復原”とある通り古い仏画ではない。日本画家の宮原氏…その時まで僕はこの作家と仕事について全く知らなかった…が主にその時点で国宝に指定されている各地の仏画を驚くほど丁寧に復原描画しているのだが、うまく言えないけどとにかくこれがスッゲーのだ!(ガキんちょみたいな表現…)。なんだろね、古いものの枯れた有無を言わせぬ威圧感(歴史だからさ!っていうような)でもなく、かといって新しいもののあざとさでもなく…。もちろん復原だから当時の様式というか形象はちゃんと感じつつ、それでいてライヴ感がある。博物館行きじゃなくて“今”使えるのよ。原画にはおそらくとても忠実で、妙な解釈というかこの手の絵にありがちないらん幻想はなし。だけどちゃんといやらしくなくどこか彼らしい。たぶんこの作家、とっても気持ちがニュートラルな人だったんだろな…それを尋常じゃない技術が支えてる。生きていらっしゃったら弟子入りしたかったな…独学大好きだけどなんかはじめてそう思う。

で、そのとき僕はこの本に当然入札したんだけど落札できなかたのです。こんなジャンルにひっかかるの自分だけだと思ってたら、さすが現場はプロの巣窟。ちゃんとライバルがいて僅差で負けちゃいまして、で当然すげーショックで…でもこうして今僕の仕事場にソレはあるのです…ヘヘ。なんか思わずほお擦りしちゃいそ(しちゃったけど)。というわけで現在ぼくのケータイの待ち受けは宮原氏の大日如来さんです。

あー、こんな絵描きてぇー!…百年かかりそ。

TERA-project_4

さて見仏界の先駆けMJ氏(みうらさんね)風にいえばMY寺院(これって今寺院=イマジンとかかけてんのかな)建立ってことなんだけど実際仮にも宗教施設であるとするならば(なワケないか…でも宗教についてちょっと考えてみる…ことはできるかも)何かしらの宗旨というものがあってしかるべき?(なんで疑問形?…ちょっと自信なかったりする)まあ、大ざっぱにはBuddhismでいいんですが(じゃないと仏像彫れない仏画描けない)日本の仏教は奈良以来の伝統宗教だけでも十三宗五十六派と言われてますからね。当然それによって安置するご本尊もちがいますし伽藍配置などの様式も異なるので、何をツクルか何を描くかにかかわる重要なポイントなわけです。

教義の根本(いつのまにできたんだ?)は一応ポジティヴシンキングですからどちらかというと来世救済系よりも現世利益系でしょうかね。たとえば末法思想を元に、生きてる間に救われるのはムリなんで極楽浄土でなんとか…という浄土系宗派はやはりどうしてもお寺と“死”のイメージと直結しますね。生きることに絶望した先の死後の救済はやはりよほど折れないココロがないとネガティヴに傾倒してしまうだろうな。西方極楽浄土はそりゃ描きがいがありそうな美しい世界なんだろうけど…。一方(スンマセンすっげー大ざっぱな対比です)せっかくならこの世でなんとか…といえば真言宗に代表されるような密教系でしょうか。神秘主義的な教義・修法によって即身成仏をめざすわけです。生きたままホトケですからね、これはすごいです…けど、先の浄土系のような顕教が経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し、特別な修行をおさめた特殊な能力を持つもののみがその真理に近づけるという感じ(あくまでも感じです。詳しくは自分で調べてー)だからさ、「…いわんや悪人をや」なんて言っちゃった親鸞さんみたいにだれでもOKてことにはならんのでしょ。だがしかし!空海さん考案デザインの曼荼羅系ビジュアルはカッコ良すぎるし、実際それでBuddhismにハマってるようなもんだし。あー禅宗系もシブイしな…ってもうどないしましょ。

まあ現世だ、死だ、来世だ…といっても、そしてそういうことがあるとしてもそれは想像もつかないひとつの大きなサイクルなわけでしょうから、はやりあらためて注目すべきは“今”なんでしょうね。今ちゃんと生きないとちゃんと死ねないってことですよ…よくわかんないけど。

う〜ん、TERA-project…まじめに考えすぎるとあたりまえだけど奥が深すぎるので、案外もっと薄っぺらでいいじゃねって思いはじめたぞ…そんでもって大まじめ、ね。

次は伽藍について考える…(エエかんげんにしなさい!)

TERA-projet_3

もうバレバレでしょうけどね、えぇそうですよ、言ってしまえばね、ナカムラはただハコをつくりたいだけなんですよ。仏つくって魂入れずなんてこと言いますけどね。ツクるという行為のなかにすでに入ってんですよきっと。だいたいタマシイの入らないモノつくるほうがむづかしいっしょ、開き直っちゃいますけど。

だってホントつくりたいモノだらけなんですから。ご本尊はもちろん壁や柱に施される仏画でしょ、天蓋からはじまってなんなら木魚とか僧衣とかだってデザインしちゃいますよ。当然それらが納まるお堂そのものもね。軽トラのせて移動式となると荷台にセッティングされるイメージお厨子みたいな感じかな。ならお仏壇屋さんとタイアップってのもいいな、でもそれって想像すると一歩まちがったら霊柩車っぽい?…だがしかし!見ようによってはあの超デコラティヴな移動式日光東照宮的な感じ、あれはあれですごくね。あんなんで死体運ぶとこ世界中他にあんのかしら?…って、この段階でチラっとwiki検索したらあの度肝を抜く和風カスタム(そう言うんだ…)、各国からオファーがあるんだとさ。実際あれインドとか走ってたら逆にフツーっぽいもんな、牛がとなりにいてもなんかしっくり。そう例えばベースのステーションワゴンがブラック以外の塗装(白とか朱?う〜んどうだろ)だったら急に晴れ晴れしくない?もう町なかで見かけても親指隠したりしなくていいんだよ。夢は膨らむでしょ…。

しかしそうは言っても初めにハコありきで、それから住職(なんなら教祖でもいいけど)募集ってさ、なんかどっかのチェーン店のまず店つくっちゃってそんで“店長募集”みたいね。ま、本店(寺)勤務の兼任でもいいんですけど。創っちまったブツへのタマシイは気合いで入れられてもお坊さんはなァ…やっぱ大事なのは人ってことかぁ。だれかこんな戯言をご理解いただけるココロの広〜い店長いやもとい、住職さん!いない?

とういわけで次回は宗旨について考えてみましょう。(まだつづくんかい!!)

TERA-project_2

今日はソラがつまんねーなーって思ってたら午後から久しぶりの雨。夏以来土日は毎週油やのお店番だったので結局日々の仕事にそれが加わりお休みなしな3ヶ月。日曜に雨の音聞いてボー(としてもいられないんだが)っとしてるのも考えてみたら久しぶり。

さて、こういう日はとりとめもない思索によろしいので調子にのってTERA-project_2…いってみますか。

実はあんなこと書いたあと、なんのあてもなく本屋入ったらまた目が合っちゃった…「お寺の基本」(やっぱヤレってことかなー…て思い込み?)。ここ数年ブームだからね、仏像の入門書とかはホント多いんだけど「寺」の成り立ちや基本を解説した本て案外珍しいのね。で、そもそも寺ってナニ?ってことですよ。仏教はもともと偶像崇拝禁止だったわけだから仏像が造られ始めたのはお釈迦様の時代から500年後くらいだけど、お寺の原型はインドの雨期、雨風をしのぐために建てられたお釈迦様たちがが修行した精舎とういことですからもう2500年くらい前からあったわけですね…って本に書いてありました…ナルホドね〜。

ま、要は修行のためのハコですよ。そう言う意味ではそこにちゃんとした教えがあれば本来はハコなんてなんでもよいわけで、逆にイレモノが妙に立派すぎるとやはり権威主義っぽくなりますね。世界中の宗教の創始者たちはおそらくナニかしらのスピリチャルな体験をもってソレを発展させてきたのでしょうけど、信者が増えて教義として組織化されてくると、そこに支配や管理が必要とされたり(なんせ人のすることですから)あるいは確実なモノを見たいあまりビジュアル系幻想を追い求めたり(これも人の性)とにかく妙な方向に進みやすい。ほんとうに個の力を信じれば特別な教祖さまのレベルではないにしろ、ちょっとした超物理的な次元の直接体験なんてなにも特別な場所に行かなくてもよいかもだし、あるいは霊的な世界と接触するための媒介もほんとうはそんなに必要ないのかもしれない、実はみんなフツーにそんなチカラあんじゃネーの…ってアレ?このままいくと“寺”いらねぇじゃん!ってなりそ…おかしいな…え〜…軌道修正します。そうはいっても依り代ですよ、個のチカラは各自磨いてください。ココに来たら救われる…とかご利益が…とか思っちゃぁいけません、ただなんか前向きにいけそうなきっかけがあったらよいなー…

to be continued(つづくんかい!)

TERA-project

仕事先の諏訪からとっぷりと暮れた長野道を北上して長野市更埴JCTでおり、以前から一度訪れてみたかった古刹・信州の長谷寺へ。友人のジャズサックス奏者・仲野麻紀が出演するコンサート「musique pour quatre mains et une bouche/四つの手とひとつの口のための音楽」開演直後になんとか駆けつける。今どき寺でジャズコンサートなど特に珍しくもないのだが、おそらくこんなことが成り立ち得るのは日本くらいだろうな。今回の彼女の相方・ギリシャ人ピアニスト、ステファン・ツァピス氏も言っていたが厳格なヨーロッパの教会などではなかなかそういうことはあり得ないようで、そういう意味では昨今の日本のモンクは心が広い…というかなんでも有り。京都・奈良あたりの観光資源的寺院はさておき、だいたいフツーの人が寺を訪れる理由は極端に限られるものだ。僕は以前からお寺でお葬式をやらなかったらいいのにと思っていたのだが、実際最近はそういう場所も少ないがあるらしい。もちろん死者を弔う気持ちも大切だが、死ぬことと同じくらい生きることにアプローチするお寺があってもいいじゃないかな…ていうか寺って本来そうでしょ。葬式するとこじゃないのよ…というわけで最近一部諸兄にはなにげに漏らしていた「TERA-project」あらためてなんとならんかなー。一般的なお寺は故人のお葬式・法要関係がメインの収入源でしょうから、それをしないとなると普通に考えるとやはり企業スポンサードあるいは助成金などを受けないと難しいね。何しろたしかに寺の維持管理にはお金がかかる。あたらしく寺院を建立したりすると莫大な費用が必要なわけで。例えば長野県で実施されている助成金に「地域発 元気づくり支援金」てのがある。元気づくりでお寺を建立…ってどうよ。ま、最初はさ、そんな立派なのじゃなくていいんだよ。軽トラに積んで組み立て移動式みたいなさ。車には協賛スポンサー名がはいっちゃったりして。鎌倉仏教の教祖さんも昔はみんな辻説法でしょ。かの親鸞さんだって最初から本願寺持ってたわけじゃぁないんですよ。あ、ちなみに僕は教祖とか坊さんムリですから、そういう能力ないし(でも般若心経は最近覚えたけど)。あくまでもTERAプロデューサー(あやしい…)、といより正直いうと寺には自分の創りたいものすべてアイテムとして揃ってるってことなんですけどね。てことは教祖募集!か。だれか良い人おらんかなーって、けっこうまじめなのよ。ちなみにTERA-projectのTERAは漢数字表記だと一兆ってことですね。仏教界では例えば「那由多」は10の60乗、「不可思議」は10の64乗、1劫 = 43億2000万年…などと気の遠くなるような数字表現が普通に出てくるのでネーミングとしてもちょうどいいんじゃないでしょうかね。ちなみにちなみに「刹那」(10のマイナス18乗)「虚空」(10のマイナス20乗)なんだって、こっちもなんかスゴイ感じ。

2人展だったんだろね?…DMをデザインしてるときから「アレ?」って。芸風もちがうしさ、少女と仏画だしな、しいていえば共通点はヒトガタ?…てそれもおおまかすぎるだろ。で、搬入時に今回の相方に聞いてみたところ(いまさらそれもどうかと思ったが)判明した理由は…そうだ企画者がじつはいたんだった。TOPOSディレクターM氏、忘れてた。数年前に場とアート表現をコンセプトに始まったTOPOSプロジェクト。その中のコラボ企画の一つとしてヤツが組んでいたのだが予定していた会場がなくなっちゃって企画は自然消滅。でもせっかくだから別んとこでやる?(この段階から僕らの自主企画)ってなってミラボオ、だったわけです。

てなわけで相も変わらずすべては忘却の彼方へ。でもまあいいんです、きっかけなんてなんでもさ。相方は震災以来再びちゃんと絵を描くことと向き合えそうな気配にたどりついたみたいだし、僕も3ヶ月もかかったけど菩薩を1枚なんとか仕上げることができたわけで。そうやって歩き始めた理由は忘れちゃっても、今歩んでる事実はココにある。過去も未来も無く今がある幸せってあるよね。刹那的って大切なことですよ。

会期中会場に足を運んでいただいた皆さまありがとうございました。先週搬入時かるく放射能鬱を罹患したと持ってましたがやはり調子にのりすぎた飲み疲れによる肝機能低下と判明して(自己判断)よかったです。さてこれからどうしましょう…とりあえず描き始めた弥勒を仕上げ、薪を割り、油やプロジェクトもいよいよ暖気運転終了、沙庭も来期に向けていろいろたくわえないとだし、境内アートもいよいよ10周年に向けて募集開始。そうそう、明日と来週はVIVAテラソも続くのです、とかとかね。お〜だいじょぶか…

bodhisattva 如意 2012/photo:Torico Printmaking Studio/Naoto Kimura

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10/16〜の2人展(神楽坂・E・spase Mirabeau)のDM撮影用作品が未完である(汗)…どうしよ。途中で撮っちゃおうか、今回相方のいいじまさんのもまだ変わるかもっていってたし。菩薩の光背、金箔にしときゃ早かったんだけどついあの胎蔵界曼荼羅の大日如来みたいなマーブリング仕様(なんてんだろ専門様式用語?)にしたくなっちゃってさ。ここだけでたぶん一週間ほど留まってるな。急遽参加の10月沙庭企画「Lithograph-Black & White 5-Artists 2012」の描画もまだ手つかずだし…(汗×3)。構想は済んでるんで描き始めれば早い…だろう、早いと思う…たぶんはやい…。ただ以来作家各自かなり苦戦してるもよう。やはりイメージサイズでかすぎた? とはいえ皆さん超えられない壁ではないでしょう、楽しみー。

さて上記企画展中10/13(土)に、なんとなく企画してみたものの思いのほか内容がオモシロそうなので関係各位と協議の末、急遽アーティストトークを開催することにいたしました。詳細はまた後日告知しますが夕方から。お料理会(パーティー)や制作映像もご覧いただけるような企画も計画中なのでぜひみなさんお出かけを!

再び2

最近なにかと直感でエネルギーを放出するばかりであったことに気付き多少はinputもとせねばと久しぶりに図書館通いを始めた。とりあえず数ヶ月前、借りたきり途中で返却してしまっていた「親鸞・激動編」(五木寛之)上下2冊を一気読み。浄土真宗ってたぶんこの国で一番広まってる宗派じゃないだろか(ホントたぶんだけど…)ウチの実家もそうだし(そんな根拠か…)。のわりにはけっこう知らんこと多そうな。ほとんどが武士の親玉あたりを扱うNHKの大河ドラマもたまには坊さん取り上げてみたらどうだろか。以前「日蓮」を読んだ時にも思ったが、ヤツらけっこう人間臭くて、別な意味で武家よりもアグレッシブで興味深いような気もするんだけど。いずれにしても平安末期末法の世から端を発する鎌倉新興宗教群は興味深いものがあるのです。

books

今朝の仕事場の室温は−2℃…それがそのまま本日屋外の最高気温となった。ホントはやく暖かくなってほしいものだ。最近の本:「両性具有の美」/白州正子、「親鸞(上・下)」/五木寛之、「中陰の花」・「アミターバ 無量光明」/玄侑宗久。最近のiTunes stor download:「リンダリンダ」/夏木マリ、「あの鐘を鳴らすのはあなた」「タイガー&ドラゴン」クレイジーケンバンド…それ以外にも他人に言えないヒミツの曲もダウンロードしたりしてる。それはそうと、ふと振り返ると意識したわけではないが、この1〜2年お坊さんの本、結構読んでる。別になにかのっぴきならないオモタイ理由があったわけではない。そういえば仏画(のようなモノ)を描き始めたことについても、何か大変なことがあったのでは…と訝るムキもあったが、これも別にそういうことではない。描こうと思った“きっかけ”に出合えたことはそれ自体個人的には大変なコトだったのだとは思うが、それもたぶん昨日までぜんぜん乗れなかった自転車にある日突然ふとした拍子に乗れてしまった…というような感覚にすぎないので心配には及ばない。

さてお坊さんの本だが、空海に始まり西行、日蓮ときて最近のブームに乗っかって親鸞…という流れ。次はシブいところで一遍上人(信州に縁があった人らしく、昨年映画製作のため善光寺にて主演のウド鈴木氏らのロケがあった)あたりをと思っている。当然それらは膨大な歴史的資料を元に作者の感性を織り交ぜて構築されたエピソードであるから話半分にと思って読み始めるのだが、それにしても興味深いのは、いずれもまだ何も成し遂げられずにいる彼らの生々しい未熟さが描かれていく場面。かの歴史的な賢者たちもみんな若き日に悩みと不安の渦中にもがいていたというあたりまえの事実に触れる時、宗派・宗旨を超えて何かしら感じるものはあるものだね。いずれにしても当時ほとんどが新興宗教だったはずの鎌倉仏教は興味深い。

余談だが、「親鸞」は越後流浪以後の話が続編「親鸞・激動編」として刊行されているので図書館でリクエスト。“鸞”の字が書けず、カードに「親らん・激動編」と子どもみたいに書き「スミマセン…漢字書けなくて…」とちょっと恥ずかしげに図書館のおネエさんに提出しのだが、きわめて事務的に受け取って処理。このおネエさんは以前「鴨川モルホーありますか?」とリクエストしたときも「ホルモーですね…」とはやり事務的に顔色ひとつ変えずに訂正して対応してくれたものだ。