Jin Nakamura log

母性とFighiting spirit

仏教の主性は母性である…。先日とあるサロンで善光寺のあるご坊からそんな話しを聞いた。だから仏陀は…無論キリストも結局そのことに気づいてしまったと。生物的には彼らは男性であるので両性具有のイメージがだぶる。なかなか興味深い話しであった。

仏教的母性の最終イメージはやはり如来か。すべてを包み込むようなフクヨカな雰囲気。そこに少しだけセクスィさを加えると菩薩のイメージになろう。一般的に仏教界のヒエラルキーは次の階層に「明王」「天部」…と続くが、そのどちらも前者2階層に比べてイメージはかなりダーティー、いわゆる強面である。それまで愛と母性を前面に押し出し、優しく包みこんでくれてたブッディズムキャラが階層を下るにしたがって変貌してゆくわけだが、ちゃんと理由はある。

まず「明王」は大日如来の命を受け、あるいはそのものの化身として未だ仏教に帰依できない衆生をその恐ろしげなビジュアルイメージで教化させようというわけだ。根底には愛はあるのだろが若干“脅し”が入ってることは否めない…が、全ての煩悩を焼き尽くしてくれる勢いのお不動さんは言うにおよばず、仏教界のキューピッド・愛染明王などはその煩悩さえも即ち「菩提」と説き、いったいどっちなんだい!とツッコミたくはなるが、何れにしても人間、ただただ優しくされたんでは将来ロクもんにはならず、たまにはビシッっと怒られたい…てな欲求もあるようで、案外明王部は人気ものが多い。

天部についてはざっくりと彼らは仏教世界のガーディアンだと理解している。ココロ優しき仏を守護するものたち。例えば薬師如来には12人の守護神がいる。十二神将と呼ばれ、その数の符合から干支とシステム的にタイアップしていてその頭頂部にそれぞれのシンボルの動物さんがあしらわれデザインされている。虎や龍(辰)などは勇猛果敢んでかっこいいけど、うさぎさんやネズミさんの人は守護神としてちょっとなめられんじゃ…とちと心配、よけいなお世話だけど。(でも僕はいずれチョー強そうなウサギさんを共にした摩虎羅大将を描こうと思っている)で、実はこの12人、各々7千の眷属夜叉を率いているので計8万7千という巨大軍ということになっているのだ。調べてみると現代の自衛隊の総人数は一応23万人程度(そんなにいたんだ…)だそうだから、それに比べると少ないが仏教が興ったころのその規模としてはおそらく世界最強だったはずだ。

で、問題はそんな最強部隊をつくっておいていったい彼らはナニと戦うのか? 仮想敵(国)は誰なのか、どこなのか?

その答えとして用意されている相手は「ヒトの煩悩」なのだと。

たとえばこの先自衛隊がナニと戦うことになるか(そうならないであってほしいが)わからないけれど、その優秀な武器で威嚇しても実際に船を沈めても、飛行機やミサイルを撃ち落としたとしても、結局自らの「煩悩」と戦う羽目になることは間違いないと思う。それでたぶんシアワセにはなれない。

2000年も前の人々がどういうつもりでこれらの憤怒の形相のキャラを創造したのか正確なのところはわからないし、現代において時に愛を語る前にある種のファイティングスピリットがなければならない局面もあるだろうとも思う。

そうは思うがやはり「母」は「戦え」とは言わないだろな。

ますじい

こんな老後を目指したい!…とひそかに楽しんでいたらFBの友だちprofに使われちった(笑)。いいなぁ…

井伏鱒二「文士の風貌」より。…いいなぁ…やっぱ。

さて、気がつけば一ヶ月以上もごぶさたでしたな。言葉にするのももどかしいと、とりあえず感じるままに流れるままに…そして描いて…という日々。そして今後はさらに筆をとることに時間を裂くことになるけど、たまには言葉も紡がなければね。

14630

鬼譚考

仕入れた古書に紛れていた平安時代を舞台にしたちょっとエッチな鬼譚集を読んでいたら、なんとなく「鬼」について考える。

鬼面とはハッタリであるという。そうだろうな、これまでに我が生み出してきた仕事の数々はせいぜいそんな類いなモノであったような気がしないでもない。だがここで自らのそんなエセっぽい芸事について語りたいわけではない。本物の鬼について、鬼を志す旨について…そろそろ考えてみた方が良いのではないかということだ。

確かに鬼の面相は恐い。古今の物語ではその恐ろしげな姿で人に仇なす逸話が数多いが、同時にある意味それだけ人に近しく、時に人に優しく愛されたりもする不思議な存在として語られたりもする。そして稀に人を護り導く神に昇華したりさえする。

古今と前置きしたが東西としなかったのには理由あり。東洋の鬼に対し西洋に悪魔がある。どちらも一見した恐ろしさは共通するが、その属性は似ていて非なるもの。八木義徳の言葉を引用すれば「西洋の悪魔はわらっている。東洋の鬼は悲しんでいる。一方は人間の愚劣さにたいする尊大な冷笑であり、他方は人間の愚かしさへの無限のあわれみだ…」と。そういう意味では例えばデビルマン(by 永井豪)は鬼に近いな。日本人が生み出したキャラだから当たり前か。

そしてまた鬼は芸事と縁が深い。百鬼往行する平安の世にあって鬼と芸術家は時に友であり敵であったいう。共に夜を明かして音を奏で詩を吟じることもあれば、時にとって喰われることもあったそうな。芸事とはそもそもそういステージのものなのかもしれないな。

古来、道と道が交わる辻は鬼を始めとする妖が出現する異空間ということになっているが、この現世において逢魔が時、スクランブル交差点に立ったところでネクタイを緩めた酔っ払いに絡まられるの関の山で、一向に鬼の気配にであうことなどもめっきり減ってしまった。

それでも周りを注視すればわずかながら鬼はいる。一見人の面相をしているので気づかずに見過ごしそうになるが。さらに八木(この鬼譚集を読んでいたらなぜか20年以上も前に読んだ随筆集が気になり引っ張りだして読み返している)の言葉を借りればそれは覚悟そのものだと言う。また続けて、「覚悟とは決心であり、決心とは断念である」という。

以下原文をそのまま引用すると「決心と言う以上、彼は多くのもののなかから一つを選んだのだ。断念という以上、彼は多くの一つのもののために他の多くのものを捨てたのだ。覚悟とはつまり何かを選び何かを捨てることだ。そして彼が捨てたものが多ければ多いほど、彼の選んだ一つのもはより強固になるだろう…」と。

僕はいまのいままでたぶん表現することにおいてずっと足し算でやってきたように思う。琴線に触れた面白そうなことには好奇心をいっそう働かせてそのすべてに手を出してきた。手を出すということと出来るということは当然全くちがうことだが、それでも引き出しは増えた。完璧ではないにしても何かしらの工夫をすればそれなりに面白いモノを生み出すことはできるようにもなった。そしてこの「工夫」そのものが苦労というより意外と楽しいものであることにも気づいていく。時に一人で解決できそうもない場合には他人の才能を巻き込んだりもしつつ。

覚悟の足りない仕事というのはそのようなことだろうか。欲張りなのだ。そして以前から薄々気がついていたが確かに圧倒的な努力が足りない。とはいえドリョクどりょく…と念仏みたいに唱えたところで目前に無限の時間があるわけもなく、結局ワクワクしないと続かないし…てなわけで自らの額に美しく荘厳する角はいつ生えることらやら…。

 

でも、なれたらイイな…オニ。

 

花腐し…

花びらを拾って歩いた、まるで少女のように。いや、そもそも少女は花びらを拾って集めたりするだろうか。これはオッサンの純情がさせる全く無意味な行為ではないか。

そうやって集めたのはコブシの花片。名ばかりの春の間に薄霜がなんどか降りたが、くりぃみぃな白を薄汚れた茶色のシミに染めながらもなんとか枝の先にしがみつき卯月の終わりにとうとう落ちた。

目の前に落ちていたわりと綺麗な1枚だけ拾うつもりだったのだが、横に目をやるとあちこちに散乱する花びらがなんだか急にいとおしくなって昨年の枯れ葉の中を歩き回り何枚も集めた。こうやって下だけを見ながら奥へ奥へと進み人は山に迷っていくのだろう…が、コブシの木は我が家の庭先にあるので僕はどこへも迷わない。

最初は出来るだけ状態のよいモノだけを集めるつもりだったが、そのうち薄茶に汚れたのもなんとなく美しく思いはじめて「このシミはよいかな…」などといろいろなものを拾い集めてみた。

さて自分なりの観点で美しいと思って集めてはみたが、これらの花びらはこの後どのようになるのだろう。もっとビビットな色であればやがて色が抜け落ちて脱色しそうだが、コブシの花はもともとそれほど主張の強い色ではない。ただ早春の山腹でまだ周りが枯れ木ばかりの中、いち早く大柄な白い花弁をつけるから、その時期には結構目立つ花木ではあるが。

白はしろのままであろうか。白が脱色するイメージはないが、茶色に変色していくのだろうか。考えてみたら花びらの行く末など考えてみたこともないので、そんなたぶん当たり前すぎるような結末を実は何も知らないことに気づいたりする。

「卯の花腐たし」という季語があるが、「腐たす」のはなにも卯の花だけではない。すべての美しい花は皆その役目を終えれば落花し腐る。

このウッキウキの季節になんでそんなモノに引っかかったのか我ながら不思議であるが、とりあえず写真に残し、この後は科学としたい。

14428

10年間地元の方たちと続けてきた「境内アート」。諸事情あり昨年をもって実行委員会を卒業させていただいたが、11年目を迎える今年は境内企画作家ということで参加となった。いろいろな意味で過渡期を迎えてるだろう本企画、志をARTでと出来るかぎりのことを考え、やれる限りのことを実現してきたつもりだが都度自らの限界も感じまた、同時に毎回参加してくれた多くの作家のみなさんとの出会いにも感謝の10年間であったとも思う。

こうした多くのフェスは大概企画当初は参加人数も少なく、当然認知度も低いから集客もままならず始まるものだが、焦らず工夫を怠らず我慢をして続けて行くかぎり必ず成功の糸口は見えてくるものだと思う。事実当初わずか20組ほどの作家に声をかけ、始めた当フェスも近年では150組ほどの出展者を数えるほどに成長した。数字の上では確実に成功に近づいているとは思う。内容的にもART+CRAFT+一箱古本市+ステージパフォーマンス+骨董市などが歴史的禅寺空間と信州の遅い春を彩る桜の森で一同に開かれる2日間はなかなか見応えのある企画といえるだろう。

ただ境内アートに限ったことではないが、こうしたひとつの成功の道筋に沿って進む企画を少し俯瞰して眺めて(特に今年はいわゆる企画サイドではないので)みると案外細々と地味〜にやっていた立ち上げ当初の頃の雰囲気の中にこそ、なにか本当のエッセンスがあったような感じがしないでもない。数字や規模で計れない、もちろん郷愁とかではない忘れてはならない何か。毎回毎年楽しいのだが、そんなお祭り騒ぎの中で少しづつ遠ざかっていった何か。

それを思い出す更なる10年でも良し、行けるとこまで行ってしまえという勢いの10年でもまた良し。何れにしてもそんな混沌を許容する寺空間は今後もそこにあり続ける。失敗はしてもいいけど後悔はしない…そんでいいんじゃないのかね。

で、結局 I’m looking fowerd to KEIDAI-ART 2015 !

*写真ほんの一部だけど自分の分も含めてのせときまっす。

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Tokyo days

標高1000M在住のカラダが寒冷地仕様になってるからな…暑かった〜海抜2.2M。

もう4期もやったしそろそろ卒業かな…って思ってた劇団風の子国際児童演劇研究所の講師、今年もやれとのことで案外どこか優柔不断な部分も持ち合わせる僕は「う、うん」とくぐもった返答をしてしまい、も一回だけ関わらせていただくことになった。まあ「境内アート」といいなんでもかんでも一気に身辺整理をつけすぎるとちとヤバイかもしんないから、なんか一つくらいズルズル引きずるものもあってもいいのかもな。

というわけで29期生入所式出席のため演劇の聖地下北沢へ。

一年半の授業の内、僕が関わるのはほんの一瞬にすぎないのだが、なんかこれ毎回ものすごくエネルギー使うのだ。おそらく受け手にそういうエネルギーがあるからなんだろうな。ちょっとジジくさくなるからそういことはあまり言いたくないんだが、やはり“若い”というのは存在するだけで暴力的で変質的で素敵すぎる(うまく言えんけど)。で、またそうでなくてはいかんよね。で、で、またそうい場所だけに不思議な子たちが全国から集まるのです。“子”といっても概ね20才前後、時に3〜40代、稀に僕より年上(一度だけ)。

そんなうじゃうじゃな集団のなかで僕の役割は美術の授業。最近はとにかくマイブームにただただ付き合ってもらってる。そんときに僕がマジハマってることを一緒にやる。発信する側がまず楽しくないと受け手もきっと楽しくないだろうとの思い込み。

例えば現在のマイブームは「仏教」なので、もし明日授業があればおそらく「今日は仏像を彫ります!」てなことにもなりかねない。それもよいような気もするが…それじゃダメでしょって気もするので、まあ秋口くらいまでじっくり考えます。それはそれでやっぱ楽しいかな。せっかくなので油やに合宿制作なんてどうかしら。とにかくみなさん一年半大変なこともあるかもだけどやりきってもらいたいものです。

KEIDAI-Art 2014

境内アートは今年で11年目を迎える。この禅寺アートを立ち上げから10年間地元小布施の方たちといろいろな思いで続けてきたが、昨年その10周年を機に実行委員会を卒業させていただいた。理由はいくつかあるが当初から自分のなかでそのくらいの目安を決めていたのかもしれない。住職には「とにかく3年でやめるとかはなしにしましょう」と、まずはどんなに大変でも継続することを条件にこの企画に関わらせていただいたが、結局基本的にポジティブな小布施人のおかげで結構楽しい10年であったと思う。その間に規模もかなり大きくなり集客も増え、改めて地元に定着した感がある。ただ自分の中で当初描いたビジョンにどれだけ近づけたかと考えると、やはり自らの限界も感じないではない。

長野では工芸系のモノツクリのフェスでは成功をおさめている企画はいくつかあるのだがアート系分野に正面から取り組んだ参加募集型の企画は自分の知るかぎりではなかったので「志をartに…」と、それで境内アート。楽しく使えるクラフトもあり、なんかつかえないモノの凄みをみせるアートもあり、そんな欲張った企画であったのです。禅寺の境内というエリアにチャンプルーな混沌を表現できたらと。

ま、そんな感じでとにかく10年はやったし、あとは若いもんにまかせて…などとジジィみたいなこと言って軽井沢油や方面にひきこもろうと思ってたら、さすが小布施人、「ジンさん今年は境内企画作家でお願いしますよ」と。なるほどその手があったか…。

境内企画作家とはそもそも僕が実行委員会にはかって作ってもらった企画なのだ。毎年主催者が2組のアート系作家を招聘して境内を盛り上げてもらおうというもの。まあ招聘というと聞こえはいいが、公的な補助金などを一切得ず(小布施町の協力はあります!)みなさんの労力主体で成り立っている企画なので、作家に対してもささやかな制作補助費が支給されるのと、夜のメインイベント「禅寺大懇親会」の参加費無料!というメリットがあるくらいで、それとと引き換えに、声をかけたナラムラからは「たのむよ、ビシッと見栄えのするやつね」などと理不尽な要求を突きつけられる、あまり割に会わない「招聘」なのだ。それでも歴代の企画作家さん、やっぱモノツクリの性ってんでしょうかね、ホント頑張ってくださいまして、この場を借りて改めて感謝ですナー。

で、このたび。この自分でまいた種がまさに自分に帰ってきてしまった…というわけですよ。どうしましょ。

本堂に9人のbodhisattva、並べようと思っとりやす。

これでゆるしてもらえるかな…。

ゆるしてもらえてももらえなくても禅寺大懇親会は楽しもーっと!

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雨ではない、かといって霧というほどでもない。空気中にほんの微細な水滴がただよってる。晴れていれば間近に見える浅間山も厚い雲に覆われ、まったくその姿を隠している。この雲は夜半には確実に雨になるらしい。

一応習慣にしてる(つもり)の散歩は夕景を見ながらと決めている。理由はいくつかある。1.朝はそんなに得意ではない。2.昼間は仕事をする。3.太陽高度が下がり、夕方の厚い大気の層をすり抜けて届くオレンジ色の波動が好き…概ねそんなところ。なので雨の日はもちろん太陽が見えない曇りの日はいまいち外に出る気にならない。が、そうそう引きこもってもいられないので本格的な雨になる前に思い切って出かけることにした。

普段よりは湿気の多い日ではあるが、そうは言っても花粉のシーズンであるからマスク必装で。しかしそのせいで歩き始めるとすぐに自分の呼気で眼鏡が曇る。周囲の湿り気と相まってまさに深い霧の中を進むようだ。レタス畑の農道はほとんど一般車両は通らないので多少視界が悪くてもそれほど問題はない。

いつもというわけではないが音楽を聴きながら歩くこともある。Keith Jarrettのケルンコンサートは空の風景が美しい時に最近よく聴いている。10代終盤に出会ったまさに名盤であるが実は長いこと聴いてはおらず、その存在を忘れかけてさえいたのだが、つい2年ほど前に知人に連れてってもらった京都のカフェでたまたま流れていて、まさに30年ぶりの邂逅を果たし、忘れモノを取り戻した気分でその後飽きない程度によく聴いているという次第。

ジャズ界ではあまりにも有名すぎる名盤なので知ってる方も多いと思うが、もし未だとうい方はには是非聴いてもらいたいものだ。表現者にとって一生に一度こんな神懸かり的な仕事ができたらもう思い残すことないんじゃないかな…(でもそれはそれでタイヘンか)。とにかく夕日に染まったきれいな空と雲をアホみたいに眺めてそのメロディを聴いていたら涙が出そうになる。でもそうしているとあまりにも簡単にトランス状態になって現実世界から離れて行きそうになるのでほどほどに…とは思ってるけど。

歩くということにはあまり意味がないような気がする。もちろん健康のためと思ってはいるが、歩き始めるとそれはただただ歩いているだけでなんか本当に意味の無い行為に思えてくる。無為とはこういことかとも思う。なんか動きながら瞑想しているような…とは言っても僕はきちんと瞑想とかの指導も受けたことも無いし当然経験もないので瞑想のなんたるかを知らないのだけれど、歩きながら普段考えないような思いに至ったりして面白い。カラダが歩くという行為でちゃんと活動しているせいか不思議とあまりネガティブなことは考えないような気もする。

今日は、これもやはり10代の頃にハマっていた劇団の演出家の言葉を思い出していた。「地球よ止まれ、僕は話したいんだ!」これは彼の本のタイトルだったかな。残念ながら本の内容は全く覚えていない。とにかく暑苦しいほどに汗臭くエネルギッシュな芝居をする劇団だったので、内容もかなり暑苦しかったんだと思う。

僕も若かったし傾向としてすぐにいろんな物事に感化されやすかったから、こんなコピーが心に残っているのだろうと思うけど、今に至ってはそんな天変地異を起こしてまで誰かに伝えたいようなのっぴきならない話題など持ち合わせるわけもなく、なぜ歩行瞑想中にこんな言葉がふと浮かんだのかが全く不明である。    …つづく

OSSAN-HARAYAMA-2

だれだソレって話しでしょうが、いいんです。いつの世もホンモノがTVなどのメジャーなメディアで羽振りをきかせてる有名人であるとはかぎらない。無名の中にこそびっくりするような能力が隠れていたりするもの。

ま、それはさておき続けます。

図らずもOSSAN-HARAYAMAの展覧会(あ、ちなみに本人は情報によると3年前にちがう世界にいっちゃってるので本展は回顧展です)ポスターに出会った僕は、これはもう来い…言われてるとしか思えなかったので、すかさず会場を確認すると「ギャラリー鬼無里」とある。県外のみなさん鬼無里(きなさ)をご存知か。小説にでも出てきそうな名前であるが、長野県北部裾花川源流、戸隠連峰の西南辺りに位置し長野市側からここを抜けると白馬方面に通づる実際にある地名。飛鳥時代に鬼無里に遷都の計画があったとされる伝承や、鬼無里盆地がかつて湖だったとする伝承、鬼女紅葉伝説などが存在し、実際に伝説にちなむ「東京(ひがしきょう)」「西京(にしきょう)」などの集落がある不思議な場所なのだ。で、会はそこで開かれているという。長野市街から1時間弱はかかろうか…が、まあいい。当日はうっすら春の雪日となったがさすがに道は凍るまいと裾花川沿いR406を長野市から彼の片鱗に会いに西へ進む。

会場は彼がアートディレクションを手がけたクライアントの一つ「いろは堂」。長野のローカルフード「おやき」の専門店に併設されたギャラリーにて。さすがに季節柄積もる気配はないが、そうは言っても断続的に雪は降りつづく山間地。予想した通り観覧者は僕一人ひとり占め。デザイン関係の制作資料は著作権の関係からかその全貌をみるには程遠い展示内容だったが、かれがまだADとして活躍する以前のおそらく30代…すなわち僕が彼の事務所に入り浸っていた頃と同世代…の仕事のいくつかが展示されていて興味深かった。

なかでも信濃三十三番札所巡りを題材にした「同行二人」…そういえばこの本の存在をもう何年も前に知って、手に入れようとしたものの既に絶版…ていうか出版社そのものが倒産していて手に入らなかったソレがそこにあった。昭和の憂鬱を引きずったようなモノトーンの挿画はある種時代的なノスタルジーの流行を垣間見せもするが、なかなかの完成度なり。共著であり文章とまた良く響きあっている。こうして実際に手に取ってみると改めて所有欲が沸きあがり、古書検索すればいいじゃん、と後日ネット検索するとすぐに見つかり、しかも長野市内の古書店に1冊発見。こうして数年前にあきらめていた本があっさり手に入った。しかも今展で初めて目にしたやはり彼の同時代の「野沢の火祭り」を題材にした木版画作品シリーズ1セット15枚を、これもダメもとで古書店のおじさんに聞いてみると「あったかも…」と奥からゴソゴソ取り出してくる…という始末。

不思議なものだ。必要なものは必要なときにちゃんと現れることになってるらしい。

ま、とはいっても今回の時空を超えた邂逅にどのような意味があるのかは未だ不明…だが少なくとも何かしらのココロのざわつきを残して春の雪は解けてゆくような…。

*掲載写真中段は原山氏制作による「同行二人」のおそらく販促用ポスター。

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OSSAN

OSSAN…僕のことではない。無論この年齢なので自分がオッサンであることは否定しないが、「OSSAN」は僕の尊敬したアートディレクターでありアーティスト原山尚久氏が自らに与えた称号だ。五芒星の周囲にOSSANの5文字を配した落款が晩年の彼の作品に押印されていた。2011年には他界したことになっているが僕はその事実もいきさつも本人から聞いたわけでもない(あたりまえだが)ないのでなんだか全く実感がない。ただ「他界」というからには別の世界に何らかのカタチをもって存在するのだろうから、おそらくそちらの世界においてナニカシラの研鑽を積んでおられるか功績を残しつつあるのかもしれない。

氏には僕が30代手前で無謀にも(あくまで一般社会的にはだが)たかだか3年間の地方公務員を辞職しフリーランスになった頃ずいぶんとお世話になったのだ。掌の趣くままに蝋を捏ねながら動物像などをつくり、それをひたすら金属に置き換える作業(lost wax casiting)に没頭していた当時、生み出された無骨な作品群に「原初」というタイトルと以下のようなコピーを添えて僕のデビュー個展を企画してくれた。

「今から3万年前の信州を記憶しているだろうか。最終氷河期を迎え、日本列島が大陸と続きだったあの頃のことを。大陸から様々な動物たちが、いく人ものヒトと共にツンドラの荒野を移動していた季節を。………「原初」それは思考がからめとる凡庸のイメージではない。美術家は動物の形象の内に自らの原初を発見した。縄文を思わせる銅製の彫刻の姿を借りて。(NAO)

…と。

自分が生み出したモノに言葉が添えられる…という経験がなかった僕はなんどもこの文章を読み返し、おそらく暗記した。

もちろん上記はあくまでも個展DM用の原山氏のコピーであって、当時の僕がそうのような制作意図をもって作っていたわけではない。そうではないが今ほど言葉を持たなかった僕は初めて文字の持つ想像力の可能性を感じたものだ。モノツクリなんだから黙って作れよ、不器用ですから!男は黙ってサッポロビール!!!by  KEN takakura(古!)みたいなんじゃなく。

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長野市善光寺西側、鬼無里辺りを源流とする裾花川に浸食された孤山「旭山」の麓に妻科という地籍がある。そこに小さな古い土蔵を改装した彼の事務所があった。どこか東京下町の路地裏にありそうな時空が止まったような不思議な異界であった。そんな場所にアヤシイ輩はもちろん、20代の僕なんかがなかなかお行き会いもできないような業界の名士…いわゆるエライヒトなんかも出入りしていたと思う。

仕事を失って(まあ勝手にやめたんだが)アート的プータローとなった僕は(考えてみたら乳飲み子がいたなすでに…)ヒマだし面白いからちょくちょく彼の事務所に遊びに行っていた。栄養ドリンクなどを買い込んで浅はかな気遣いとともに。たぶん仕事の一つももらえるかもという打算もちょっとあったかもしれない。動物というテーマは彫刻だけではなく平面でも描いていて、そのころイラストレーションの登竜門的コンクールでたまたま受賞したのをいいことに彼のきらびやかなアートディレクションの中で使ってはもらえないだろうかと営業をかけると氏曰く「そーだなーナカムラはウシとかウマとか描いてるから信州ハムあたりかな…」と。

販売促進ツールを作り出す歯車の一つとしてのイラストレーションと自らの内発的衝動で描く絵との基本的区別がついていなかった僕は彼のそのつぶやきですべてを悟る。「あ…自分の牛の絵でハムが売れるわけがない…」で、以後無理なお願いは慎むようになる。だが今にして思えば、その時ハムが売れそうなウシの絵を描こうと思わなかった自分がエライ…というか描けなかった自分に感謝…かな。

それでも懲りずにハラヤマ詣ではその後もちょくちょく(なんたってこっちは時間がたっぷり)。常に哲学的風情を醸し出し、アーティストでもあった氏であるが、まっとうにその能力を駆使するかぎり彼は長野ではチョー優秀なアートディレクター(その頃有能なデザイナーは多かったがADのできるヒトはほとんどいなかったと思う)であり、その意味では全くカタギで本来僕なようなヤクザなアート小僧の相手などしてるヒマはなかったはずであるが、行けばそれなりに時間をさいてくれた。もっとも時には大きな作業机の真ん中に立てたお香に火を灯し、この一本が終わるまでね…と長居を制限されたこともあったが「なるほど〜こんな追い返し方もあるものか…」と僕の方はその場で起こるすべてが学びとなってしまう始末。

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さて、数日前に普段ならまったく行く必要も無い長野市のアーケード商店街を歩いていると一枚のポスターが目に留まる「原山尚久展 DESIGN←→ART」。もう何年も忘れていた名であった。先に記した通り今生にいないことは聞いていたので本人が展覧会を開くはずがないので一瞬同性同名かともよぎったが懐かしいカブトムシの絵が印刷されていたのですぐに本人のものと確信はしたが、まさに白昼の商店街で幽霊にでも会った気分である。もちろん悪い気はしない、、し、怖くもない。むしろ懐かしく不思議な気分。ただどれくらいの人たちがこの商店街を日々行き来するか知らないが、おそらくこのポスターの前で足を止めるのは僕だけなんだろうな…と思った。

(思ったより長い文章になったので続きとします)

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