Jin Nakamura log

鬼譚考

仕入れた古書に紛れていた平安時代を舞台にしたちょっとエッチな鬼譚集を読んでいたら、なんとなく「鬼」について考える。

鬼面とはハッタリであるという。そうだろうな、これまでに我が生み出してきた仕事の数々はせいぜいそんな類いなモノであったような気がしないでもない。だがここで自らのそんなエセっぽい芸事について語りたいわけではない。本物の鬼について、鬼を志す旨について…そろそろ考えてみた方が良いのではないかということだ。

確かに鬼の面相は恐い。古今の物語ではその恐ろしげな姿で人に仇なす逸話が数多いが、同時にある意味それだけ人に近しく、時に人に優しく愛されたりもする不思議な存在として語られたりもする。そして稀に人を護り導く神に昇華したりさえする。

古今と前置きしたが東西としなかったのには理由あり。東洋の鬼に対し西洋に悪魔がある。どちらも一見した恐ろしさは共通するが、その属性は似ていて非なるもの。八木義徳の言葉を引用すれば「西洋の悪魔はわらっている。東洋の鬼は悲しんでいる。一方は人間の愚劣さにたいする尊大な冷笑であり、他方は人間の愚かしさへの無限のあわれみだ…」と。そういう意味では例えばデビルマン(by 永井豪)は鬼に近いな。日本人が生み出したキャラだから当たり前か。

そしてまた鬼は芸事と縁が深い。百鬼往行する平安の世にあって鬼と芸術家は時に友であり敵であったいう。共に夜を明かして音を奏で詩を吟じることもあれば、時にとって喰われることもあったそうな。芸事とはそもそもそういステージのものなのかもしれないな。

古来、道と道が交わる辻は鬼を始めとする妖が出現する異空間ということになっているが、この現世において逢魔が時、スクランブル交差点に立ったところでネクタイを緩めた酔っ払いに絡まられるの関の山で、一向に鬼の気配にであうことなどもめっきり減ってしまった。

それでも周りを注視すればわずかながら鬼はいる。一見人の面相をしているので気づかずに見過ごしそうになるが。さらに八木(この鬼譚集を読んでいたらなぜか20年以上も前に読んだ随筆集が気になり引っ張りだして読み返している)の言葉を借りればそれは覚悟そのものだと言う。また続けて、「覚悟とは決心であり、決心とは断念である」という。

以下原文をそのまま引用すると「決心と言う以上、彼は多くのもののなかから一つを選んだのだ。断念という以上、彼は多くの一つのもののために他の多くのものを捨てたのだ。覚悟とはつまり何かを選び何かを捨てることだ。そして彼が捨てたものが多ければ多いほど、彼の選んだ一つのもはより強固になるだろう…」と。

僕はいまのいままでたぶん表現することにおいてずっと足し算でやってきたように思う。琴線に触れた面白そうなことには好奇心をいっそう働かせてそのすべてに手を出してきた。手を出すということと出来るということは当然全くちがうことだが、それでも引き出しは増えた。完璧ではないにしても何かしらの工夫をすればそれなりに面白いモノを生み出すことはできるようにもなった。そしてこの「工夫」そのものが苦労というより意外と楽しいものであることにも気づいていく。時に一人で解決できそうもない場合には他人の才能を巻き込んだりもしつつ。

覚悟の足りない仕事というのはそのようなことだろうか。欲張りなのだ。そして以前から薄々気がついていたが確かに圧倒的な努力が足りない。とはいえドリョクどりょく…と念仏みたいに唱えたところで目前に無限の時間があるわけもなく、結局ワクワクしないと続かないし…てなわけで自らの額に美しく荘厳する角はいつ生えることらやら…。

 

でも、なれたらイイな…オニ。

 

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