untitled_1444
- By jin
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- On 5 4月 | '2014
雨ではない、かといって霧というほどでもない。空気中にほんの微細な水滴がただよってる。晴れていれば間近に見える浅間山も厚い雲に覆われ、まったくその姿を隠している。この雲は夜半には確実に雨になるらしい。
一応習慣にしてる(つもり)の散歩は夕景を見ながらと決めている。理由はいくつかある。1.朝はそんなに得意ではない。2.昼間は仕事をする。3.太陽高度が下がり、夕方の厚い大気の層をすり抜けて届くオレンジ色の波動が好き…概ねそんなところ。なので雨の日はもちろん太陽が見えない曇りの日はいまいち外に出る気にならない。が、そうそう引きこもってもいられないので本格的な雨になる前に思い切って出かけることにした。
普段よりは湿気の多い日ではあるが、そうは言っても花粉のシーズンであるからマスク必装で。しかしそのせいで歩き始めるとすぐに自分の呼気で眼鏡が曇る。周囲の湿り気と相まってまさに深い霧の中を進むようだ。レタス畑の農道はほとんど一般車両は通らないので多少視界が悪くてもそれほど問題はない。
いつもというわけではないが音楽を聴きながら歩くこともある。Keith Jarrettのケルンコンサートは空の風景が美しい時に最近よく聴いている。10代終盤に出会ったまさに名盤であるが実は長いこと聴いてはおらず、その存在を忘れかけてさえいたのだが、つい2年ほど前に知人に連れてってもらった京都のカフェでたまたま流れていて、まさに30年ぶりの邂逅を果たし、忘れモノを取り戻した気分でその後飽きない程度によく聴いているという次第。
ジャズ界ではあまりにも有名すぎる名盤なので知ってる方も多いと思うが、もし未だとうい方はには是非聴いてもらいたいものだ。表現者にとって一生に一度こんな神懸かり的な仕事ができたらもう思い残すことないんじゃないかな…(でもそれはそれでタイヘンか)。とにかく夕日に染まったきれいな空と雲をアホみたいに眺めてそのメロディを聴いていたら涙が出そうになる。でもそうしているとあまりにも簡単にトランス状態になって現実世界から離れて行きそうになるのでほどほどに…とは思ってるけど。
歩くということにはあまり意味がないような気がする。もちろん健康のためと思ってはいるが、歩き始めるとそれはただただ歩いているだけでなんか本当に意味の無い行為に思えてくる。無為とはこういことかとも思う。なんか動きながら瞑想しているような…とは言っても僕はきちんと瞑想とかの指導も受けたことも無いし当然経験もないので瞑想のなんたるかを知らないのだけれど、歩きながら普段考えないような思いに至ったりして面白い。カラダが歩くという行為でちゃんと活動しているせいか不思議とあまりネガティブなことは考えないような気もする。
今日は、これもやはり10代の頃にハマっていた劇団の演出家の言葉を思い出していた。「地球よ止まれ、僕は話したいんだ!」これは彼の本のタイトルだったかな。残念ながら本の内容は全く覚えていない。とにかく暑苦しいほどに汗臭くエネルギッシュな芝居をする劇団だったので、内容もかなり暑苦しかったんだと思う。
僕も若かったし傾向としてすぐにいろんな物事に感化されやすかったから、こんなコピーが心に残っているのだろうと思うけど、今に至ってはそんな天変地異を起こしてまで誰かに伝えたいようなのっぴきならない話題など持ち合わせるわけもなく、なぜ歩行瞑想中にこんな言葉がふと浮かんだのかが全く不明である。 …つづく