Jin Nakamura log

Je pense, donc je suis

描きかけの絵をなんとなく眺めてたら…吾想う故に、吾あり…なんでそんな言葉が浮かんできたんだろ。

目の前に起こりうることはすべて幻であったとしてもそれを想う自分だけは真実、そこに存在する…「そりゃいますよワタシはココに。アナタはいるのですか?ソコに。ホントに??…いやマジで???」みたいなことでしょ。こんなことまじめに考えるのってピンクのカラスが存在しないことを証明しようとする行為ほどにアホらしい…ような気がするのだが何故唐突に浮かんできたのだ? “でかると”ってだれよ。

自分の描いた(ている)目前の絵が幻かどうかはとりあえず保留にするとして、描いている絵を眺めていると絵がこうなりたい…って言うとか、木を彫っているとココを彫って…って言ってくるとか、そういう瞬間て確かにあるにはあるが、それもそれを表現できる技術があってこそと言えやしないか。芸事だからね、啓示を受けるのよいけれど研鑽も積みなさいってことですよ。

ちなみに言われた通りにできなくて、なんでこんなんなっちゃたの〜てなこともアリなんだな〜。だからこそずっと他のことなにもしないで描いてたいんだけど、あんなこともやっちゃってるし、こんなことも始めちゃったし、あー肩痛てぇし…って言い訳してる自分だけはやはり…真実。

*明日からお盆期間中特別企画でこの絵、沙庭にもってって公開制作ーって今のところ思いつきです。やるかもしれないけどやらないかもしれない、けどちょっとはその気…かも…ってどっちなんだい!。

予告

ART PROJECT SANIWA EXHIBITION vol.3
吉村正美×たかはしびわ展 
9/1(土)〜9/30(日)
今回はこんなセレクトです。いかが?
こんな絵、部屋にあったらぜったい楽しいと思います!

Midsummer greeting

思春期に宇宙のことを考えすぎて鬱になった…という人に会った。考えすぎでしょ!って言ってしまえば身もフタもないが、なかなかスケールのでかい鬱である。

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日本画家の生井巌氏から暑中見舞いが届いた。相変わらず絵のようなステキな文字。そして当て字が多く謎解きのようでそれもまた面白い。虫眼鏡で見たいくらいの文字で般若心経も記されている。僕はこのお経の本を3冊も持っているが、だいたいいつも四分の一くらいおぼえたところで挫折する。考えてみたら一度も写経というものをしたことがなく、それで諳んじようとしてもムリかもね。

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文章の中に「愚痴は己を励ます一つの手だてと教えてもらった…」書かれている。そんなものかしらと思うが本人が腑に落ちて前向きな気分でいられるのならそれはそれでよいのでしょう。

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最近どんな宗教(成立の新古は問わず)でも、民間信仰…たとえばおじいちゃん、おばあちゃんが言ってるようなこととかだって結局は同じことを伝えようとしてる気がしている。大きな真理は一つでもアプローチの仕方が違うだけで。プロセス…腑に落ち方って大事でしょ。みんな性格とか体力とか違うんだからさ、自分に合ったもの選べばいいんだよ。がっちり修行したいひとはハードな禅宗系。辛いの苦手な人は易行念仏。宗教的なの受けつけないひとは、とりあえずおばあちゃんの知恵袋的なモノでも信じて。

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つい一週間ほど前、百号からある季刊「銀花」の古書のなかから1冊選んで購入。その中に偶然30年ほど前の生井さんの記事があった。この人はそんなにも昔(失礼)から本気で絵を描き続けていたんだな…と改めて敬服。そして件の暑中見舞いが今日届く。とても片手間なものとは思えない。それともかの画家はこんなものがさらっと書けてしまうのだろうか。いずれにしてもこんな私に有り難いことである。いったい何を返せばよいのやら…などとそもそも釣り合いをとろうとすること自体が不遜なのかもな。

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で、とりあえず感謝。

高地回遊

八幡屋ファームに行く前に。友人の映像作家・MACHIDA氏企画のTOPOSプロジェクト-高地回遊をちらっと。とはいっても飯綱高原の主だった各会場は折しものきなみ火曜日定休ということで今回は唯一開館していたペンション・アンデルセンに赴き、こちらも友人で日頃お世話になってるリトグラフ刷り師・梅田明雄氏(今回は作家として参加)の展示を拝見。寝室の一室を展示会場にしている。最近はアートフェアなんかもこんな雰囲気がよくあるよね。作品は文字がテーマということのようだ。

霊峰

子どもの頃から見てるけどやはりこの山は特別だなあ。なんか不思議と落ち着くのです。僕の住んでるところの浅間とかまた富士山とか、孤高の山の美しさはあるのだろうけど、やはり山は連山でしょ。あの壁みたいな感じはよいね。写真は飯綱湖近くの八幡屋ファーム(お仕事ナリ)からの戸隠連邦(高天原から天の岩戸が飛んで来たところね)の眺め。あ〜気持ちよかった〜。

untitled

夏空に崩れゆくかよ龍の笑み…このあと龍が笑ったんだよ。

仲夏の句

夏、盛りですね。

「昼頃、高温になるから外出を控えるようにと町内放送がありました。…」とは句会主宰のメール。真夏の戒厳令か〜なんて思ったりして、というわけで僕は当分ココを離れません。

さて久しぶりですがオトナの遊び“句会”より。今回は自句とともに選句も。

自句

庭先に虹を操るジョロの先

毎朝のアカハラという鳥たぶん

夏至夜風酔い醒め温むアスファルト

仁選

「さみだれて魚でありし跡に触る」
いつものことで意味不明・不思議系好きで選んではみたもののどのように想像しようかちょっと棚上げにしてる間に時間が過ぎちゃいました。この場合の季語は「さみだれて」になるのでしょうか?平仮名にしてあるので「五月雨」のイメージではないものを被せたいのかな…、「さ、乱れて」ですか?気持ちの乱れと言えばやはり恋?だとすれば後半がまたわからん。自分のカラダのなかにそんな進化(あるいは前世)の痕跡をお持ちですか?ステキですね。どこに触れたのか知りませんが、たぶん何か記憶があったんでしょうね。…で結局やはりよくわかりませんでした〜。
「頬よせて微熱を移す錫の鉢」
錫は一時期制作の素材として使ってたことあり。柔らかい金属ですね。「錫の鉢」は無機物のはずなのに前半の五・七が妙になまめかしいといのでつい微熱を移したのは想い人だったのかななんて妄想。
「ゆふらゆら夕あぢさゐの青に昡る」
「昡る」はなんて読むのですか?「くる」?モノ知らぬついでに「夕あじさゐ」は夕顔みたいに夕方咲くのでしょうか。その青が眩しいのですね。そのものにくらんだのかそれとも夕日かなんかが反射して眩しかったのか…。ただ見たままそれだけの状況を詠んだのか、なにか意味ありげな感じもしないでもないし…う〜ん、これもよくわからん(わからんなら選ぶな…ってつっこまれそう)
「かへし陽に茅の輪(ちのわ)くぐりて更に生く」
前にTVかなにかで見たことあるような…。神社かお寺でやってる行事でしょ?穢れを祓ってさらに生きるってわけですね。だらだら生きるのも、生き抜こうと覚悟を決めて生きるのも生きることにはかわりはないけど、一瞬この身を借りて舞い降りた魂なれば現世を謳歌したいものですねぇ。
「ひからびた蚯蚓に聞けり明日の風」
最初「蚯蚓」を「蜥蜴」と勘違い。なるほどたしかにミミズはよくひからびてますね。それに明日の風を聞いちゃうわけですか。なかなか特殊な能力をお持ちで。でもさ、そういう感というか、総合判断能力は実はみんな持ってるんじゃないのかな。たぶんカガク的なものでマヒさせらてんですよきっと。

蝙蝠

屋号なんです。コウモリ…漢字で書くと「蝙蝠」。字面が「福」と似通ってることから東の大陸方面ではその絵柄自体も吉祥紋として扱われてまして、僕が好んでつくる“エセ古伊万里”シリーズなどにもしばしば登場しています。それを屋号にいただいて「食とアート」をテーマに育てていこうと目論んでるのが、油や要の場所「蝙蝠」。とはいっても今回とりあえず成し遂げたことは古いタタミをはいで床を古材で貼り直し、照明を変えて、志を示すべく蝙蝠柄の暖簾を掲げるまで。今後はできれば月に一度のお食事会や地元食材のマルシェなどボチボチ展開していく計画。油やで一番時間をかけて成長していく場所になるでしょう。ご期待ください。*8月末の週末にお野菜料理の会費制お食事会を開催予定です。詳細が決まりましたら告知します。

周知の諸兄も多いかと思われますが、信濃追分文化磁場「油や」は7/21におかげさまでGRAND OPENしております。オープン準備等で多忙を極め…などという言い訳も通用しないほどにそろそろ10日も過ぎようとし、いいかげんにblogも更新せねばと、オリンピック男子サッカー1次リーグ最終戦を1時間後にひかえ久々に新規投稿。(この後油やVIPルームパブリックビューイングにて観戦予定)取り急ぎまずは記録しておいた館内photoを公開しておきます。明日からはまたボチボチと書いていきますね。

邂逅

合間をみながらしつこく描いてる目の前の霊獣を眺めながら…ふと、この絵は千年もつのだろうか…などと途方もないこと考えた。そんな価値のあるものを描いているのか…そんな年月だれかに愛でられ続けてもらえるのだろうか…自分がいなくなっても家族くらいは捨てずに持っていてくれるかな…でも子孫だっていつまでつづくかなんて誰にもわからないし。奢れるものは(べつに奢ってもいないが)久しからずって言うし。以上別に気弱になって考えたんじゃない。もし来世ってのがあったら…最近チトこんなスピリチャル系多くて恐縮だが一説によると50代は神秘主義のお年頃らしいのでユルシテ…そうもし生まれ変わっちゃったりしたらさ、しかもその時に自分の絵とかが残ってたりしたらさ、記憶はないかもだがそれでも巡り会えるわけでしょ。それってスゴクねってなんとなく。かの東山魁夷画伯が唐招提寺御影堂に奉納した障壁画などは確実に千年は残るでしょ…ていうか我が国が存在する限り残すよね。そしたら画伯の生まれ変わりのヒトはたぶん前世での自分の偉業に出合うわけだ。いいなー。ま、そんな選ばれし邂逅でなくても、骨董屋の片隅にホコリかぶってたの見つけちゃった的な感じでもいいから、なんとか残っていてそして出合いたいもんだなーなんてしみじみ。ただなー今描いてるのダンボールだしな支持体がまず千年ムリね。輪廻も100年スパンくらいならなんとかなるか…。