Jin Nakamura log

Revoltech BUTSU

買っちゃった〜! 

リボルテックタケヤシリーズ「持国天」(KAIYODO)

仏像を可動させて好みのポーズをとらせる…という前代未聞のコンセプトで制作さてれてます。ロボットやヒーローものフィギアで関節部を自在に可動させるリボルバージョイントが20ヶ所以上組み込まれており、本来の基本様式を超えた変形アクションポーズが可能というわけです。例えば写真の持国天さんは右手に(げき)という槍のような武器を持ってるわですが、たとえば無手にして様々なポーズをとってもらったり…とか。

仏像は時代が古いほど直立的なものが多いのですが、鎌倉期になってくるとミケちゃんまっさおな感じの写実的西洋彫刻風なブツに変化してきます。慶派の仏師たちももしこのリボルバージョイントの技術を習得していたならおそらく動く「新仏像」シリーズを制作していたことでしょう。たとえば東大寺南大門の金剛力士、週一でポーズ替えとかサ。なんかワクワクしてきません?。

それにしても小さいながらこの邪鬼さん…なかなかの踏まれっぷりです。

天つ風

ムスコちゃんたちがまだ小学生のちびっ子のころの本(学校で使ってたのかな…)と思われる、満点ゲットシリーズ「ちびまる子ちゃんの暗唱百人一首」が誰が見つけてきたのかなにげに机上に。HAIKUはあそばせてもらってるがさすがに和歌をたしなむことはない…が、なんとなくパラ見しつつふと百首あるわけだからMy best 1をと選りすぐってみたのがこれ。

「天つ風 雲の通い路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ」…どうよ!

以上の件に関して同居人の感想:「老齢の仙人が下界のうら若き娘のふくらはぎのあらわなるについ見とれて、その霊力をあっさり失う…って感じね〜(以上コレを選んだ件についてもっとぐだくだ云われた気がするが要約すると)」。って失礼な!僕は老齢ではないし、まして仙人でもない。それに今時「ふくらはぎ」くらいでムラムラもしない、せめて「太もも」。

それはさておきたしかに若い娘を自らかどわかしておいて、逆にその魅力に取り込まれ飛ぶチカラを失ってしまった天狗の話を聞いたことがある。いやそんなことよりこの歌の「をとめ」は天女のたとえですからね、そのへんのチャライねェちゃんじゃないのよ。もっとこう次元が高いっていうかサ、宇宙的っていうかサ…ま、いいや。

ちなみに作者は僧正遍昭…坊さんかな…桓武天皇のお孫さんで六歌仙の一人らしい。

紙本着色

だいぶできてきた。このあとドーサひいて箔貼って主線描いて…。

そいや“夢”とちゃんと向き合ってなかったな(ふつうそうか)。人生1/3くらい損してたかも。

明恵

「あきえ」ではない。「はるえ」でもない…だから女の子の名前ではない。「みょうえ」お坊さんの名前である。空海、親鸞、日蓮、西行…と、bow-san booksをなんとはなしに読んできたわけだが今回はこの方にハマりつつあり。とはいってもこのひと、日本的霊性が大きく活性化した鎌倉期にあって先に上げたbow-sansの内、親鸞、日蓮などは言うに及ばず法然、道元などなど名僧と言われる人々が名を残す中、特に新しい宗派を立ち上げたわけでもなく、現在に至るまで彼の教えを伝え続けるような一派が徒党を組んで残っているわけでもなさそう。でも先の“ナニかを成しとげちゃった”人たちとはまったくちがったタイプの人間的魅力の持ち主っぽいのよ。

樹上座禅像」なんかこのインパクトのない感じ、よいでしょ。普通頂相図などは威圧感・存在感をもって良しとするところだけれど、このひと履いてきたきたゲタをぬぎ捨て、二股に分かれた松林の木に座っちゃってます。お数珠もそのへんにひっかけて。あまりにも周囲と一体感ありすぎで、剃り上げた後頭部あたりから今にも栗鼠などのぼってきそう。

こんなこと言ってます「我は後世たすからんと云う者にあらず。ただ現世にあるべきようにあらんと云う者なり」。前半は当時一世を風靡していた浄土信仰とはとても遠いところにある言葉ですねぇ。後半もなんかチカラがぬけててイイ感じ。一宗一派を成さんともせず、大寺院を建てようともせず、特に弟子もいらないといい…それでも人を引きつけるなにかもってる不思議なオッチャン。

その不思議キャラを今に伝えてるのが「夢記(ゆめのき)」…

しばし彼の夢世界を探検してきます。

Artな日々? 他

collage de sun-ga-nichi+1日のところですっかり日常のカベに阻まれ滞っていた3日に1作計画。三賀日につきあってくれたHARUくんはその間、仕事の合間を見て着々とすすめていたらしく作品数は8点に…いいだしっぺのヒトは1作抜かれてしまった。一見どうでもいいような行為も数を重ねてくると何かしらの意味がありそうに見えてくるから不思議だ。自分のしていることの意味や成果を問う前にまずは己の気持ちに寄り添い続けることって簡単なようで結構ムツカシイ。不安にならないこと、楽しむこと、信じること…コトバにするのはカンタンなのだけれどね。

夜遅く仕事から帰って眠い目で面相筆の先を震わせている…明日のためにホントは早く寝た方がいいのにサ。でもその行為は間違っていないと思うのです。今回はそんなカレの仕事場(じつはキッチン?)初公開(本人検閲済み)!

さて、その分野のちょっとだけセンパイのオッチャンはナニしてるかというと「二天背合圖」制作中。こっちは眠くて面相筆の先が震えるのではなく、加齢による視力低下で筆の先がかすむ。アートは体力勝負だ〜。まにあうかな…2月8日。

+(余談)

珍しく知り合いの女の子からメールあり「穴掘るの手伝って…」って死体?愛憎のもつれか?共犯か?しばらくして再メール「あ、死体…でもヒトじゃないよ…でも手が足りたからOK」…なんやねん!!。

untitled

写真右下はヒトの、左下はそうでないモノの足跡。

長ぐつで歩くのしんど〜い…でもたのし〜、マジでスノーシュー欲しいぞ!。

Reacent books◎「AKIRA1〜6」大友克洋/「明恵上人」白須正子/「恋明恵」光岡明/「明恵  夢を生きる」河合隼雄/「絵解き般若心経」瀬戸内寂聴+横尾忠則/「霊告日記」北一輝

Snow day

20cmは超えた。ちょっと前に自作のカンジキであそんだなー。スノーシューってスポーツショップに売ってんのかな? あったらほしいな…。新雪の中歩くのってキモチよいよ。

AKIRA

このコミックを最初にみたのはいつだったろうか。たぶん当時としては珍しい週刊誌サイズの版型で単行本化されてすぐくらいだったと思うのでもうメチャクチャむか〜しのことですよ。TSUTAYAの古書コーナーでずうっと前から並んでて気にはなってたんだが、誰も買わないみたいなんで、しゃーないなーってんでついまとめて…。

たぶん都内で個展かなんかのとき泊めてもらってた従兄弟んちの書架に並んでたのを毎晩読んでたような。彼のアパートは晴海埠頭近くの新興団地にあり、まだ建設されて間もないその広大な埋め立て地は街としての機能がほとんど整備されてなく、夜ともなれば本当にここに人が住んでいるのだろうかと思うほど、整然と立ち並ぶコンクリートの巨塊のみの異様さだけが目立ってずいぶんと不気味な印象だった記憶がある。

銀座からバスでものの10分ちょっと。隅田川を渡ってさほどその先があるわけでもないのだが…。その人の匂いのしない“街”のようなモノはちょうどコミックの舞台となっている「ネオ東京」の旧市街を連想させ、窓から見える暗闇(実際にはその先には東京湾が広がっていたわけなのだが)のすぐ先には爆心地のクレーターがぱっくりと口を開けているような妙なリアリティーがその場所にはあって不思議な気持ちで読み進めていた記憶がある。

ああいったストーリーは田舎でボ〜っとソラ見て過ごしてる人間にはとても描けないとは思うのだけれど、この物語りの同時代、地方都市の人々はどんな暮らしをしてたんだろうと読みながらふと、確か晴海で読んだ時もそんなこと考えたような…。この手…最終兵器使用後あるいは第三次世界大戦後…のモノガタリの開始設定のSFは多々あるが、そして舞台は必ず都市型廃墟であるが、それはソレ…あくまでも関東平野の海のそば限定で起きたことで、田舎にはフツーに暮らしがあったんじゃないかと…。春になれば山笑い、夏・秋と豊かな自然を謳歌し冬がくれば山眠る。お祭り騒ぎのような街にキノコ雲があがっても村々にある鎮守の森はなくなったりはしない。そんなモノガタリのような脆弱さは本来は田舎にはないのだ!…などとみもふたもないことを思いつつもまとめて購入した4冊読み終えてみたらコレ6巻まであんのね、てんでさっそく残りの2冊を求めAmazonさんへ…。

そいや先日から始まってます「猫のマッチラベル展」参加中。友人の燐票家・加藤豊氏の貴重なコレクションも同時展示。【ギャラリー猫町・東京谷中】2013年1月10日(木)〜1月20日(日)

僕はマッチラベルデザインは大好きなんだが、マッチそのものは実はあまり好きじゃない。あのイオウの匂いが苦手なのだ。マッチを擦りおわったあとのイオウの匂いが好き…という人もいますね、人それぞれです(温泉はゆるせるんだけどね〜)。多分化学薬品系の匂いは総じてニガテなんだと思う。最近気がついてきたんだが、視覚的なことよりも嗅覚の方が敏感かもしれない。具体的なモノの匂いというよりも雰囲気とかの匂いかな…イイ感じとか、なんかちょっとヘンとか急に感じることあり。ただ空気の匂いは感じても場の雰囲気は読まないことにしているけれど。

夢日記

僕は黒猫であった…そしてなんか「解放しろー!」というような感じのことを叫んでいる。僕はパツキンの髪の毛デコ盛りの貴婦人であった。一晩にまったく違うモノになった。臨死体験から現世に生き返った人が、覚醒した自分の傍らに咲くチューリップを見て「あれは自分だ…」と言ったって。「私」と「世界」は同等…あるいは一緒ってこと。同義ではないがそれって「色即是空/空即是色」のニュアンスに近いな。徹底した言い方をすれば例えば前者は小丸(最近ウチにきたネコ)ちゃんと僕はいっしょ。後者は両性具有?(飛躍し過ぎか)。芸術家は両性具有でなければならぬ…と言い切る作家もそういえばいたっけ。ま、今回の場合自分の下半身を確認したわけではないのでもしかしたら単なる女装だった可能性もアリだが。

以前にも印象深かったのはたま〜に書いたが「夢日記」ちょっと積極的に記録しとこうかな。それにしても夢ってなんあであんなに急速に忘れていくんだろ。あり得ないような体験してるはずなのに…。

写真は早朝の現実世界。