Jin Nakamura log

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夏庭2

自分のような凡夫は終わりなき永久(とわ)の夏を成長し続けてるということで、それはすなわち限りない未熟ということで。成長という言葉が適当でないなら変成の方が遠からずというわけで…って、そんなロジックをコネクリ回すほどに「オマエはバカか」と言葉を越えた人種からは言われているようで。しかしそう言われてもかえってドキドキしてワクワクしてちょっと嬉しかったりするわけで。で、そこまでくると変成というよりも、もはや変態に近いんかもしれないが、それでも凡夫は凡夫ナリにこの長過ぎる夏の始まる以前の記憶を必死に思い起こそうとしているわけさ。

そこで気がついたんだが霧の中でつかめそうなモノをジタバタ手探りするよりも、さっさと背を向けて真逆の方向へ今まで通り進むってのもアリかと。自分に一番遠いものって自分のすぐ後ろにあったりするでしょ…「だって地球は丸いんだもん!」

と、言いつつもたまに我慢できずに振り向いちゃったりするかもだけど。

それで結局考えてもどうしようもないことは潔く思考停止。考え始めると“今”から離れるから。

Opening flier

油やプロジェクト◎7/21(土)グランドオープンが近づいてまいりました。ただいまテナント紹介も含めたフライヤーを制作中。改めてこうして各テナントのコピーやら画像やらをレイアウトしてみると不思議な縁で寄り添ったような気がしてくるのです。

soramitakotoka take a walk

下町あたりの路地裏散歩も好きだが、ソラを眺めながらふらふら歩くのもよい。それには広大なレタス畑が最適。大声で歌うたいながらでもだいじょぶだし、上を向いて歩いててもまず何かにぶつかる心配ないし。真上を見上げて視界から地平線が消えると天地が逆になったような錯覚を覚え、そのままそこに寝転がってボーっとしてたい衝動にかられるが、さすがにたまには農業用車両も通るので自重。

写真、ちょっとだけレンブラント光線。

ちなみにスペシウム光線はウルトラマン。エメリウム光線はウルトラセブン。メタリウム光線はウルトラマンA…

で、レンブラント光線はだれも倒さない。

夏庭

30代の頃かな、妙に庭つくりにハマってた時期がある。今にして思えば、なんでそんなことにそれほど執着していのか不思議なくらいだが、たぶんなにかに満ち足りていたんだろうな…そんな気がする。現在我が家の庭にあるほとんどの草木は僕が植えたものだ。ヤツラはすでに充分すぎるほどの先住権を主張して、100年も前からそこにあるような顔をして落ち着いているものだ…ていうかすでに手がつけられないほどに鬱蒼とさえしている、特に夏は。

今でも庭を愛でたりするのは嫌いではないが、あの時ほどの執着心はない。ただただ繁にまかせたものをボーっと見るとはなしに見て、感じるとなしに感じて…そんなところか。「あ、いたのね、、、キミたち、」てな。

かってに植えといて飽きたら面倒もみず、まことに恐縮この上ないのだが、親はなくても子は育つっていうし、そもそも親でもないし、ま、いっか。

最近外の仕事場に行くたびにドウダンツツジの葉陰からモズ(ヒヨドリかな)らしき大型の鳥が何度も飛び立つを目撃していたのだが、よくよく見ると営巣してた。ネコなどがいたらかるくやられてしまいそうだが、今のところタマゴも無事な様子。

無責任なオヤ(?)には顧みられない我が庭のようなモノもこうして周囲のイキモノには多少なりと何かしらの貢献はしているようだ。

写真は2011年に撮影したそんな夏庭のピックアップ。あらためて目を向けてみると悪くない風景があるようだ。が、やはりもともと作り込んだり管理したりすんのが苦手な性分だし、最近は特に成行きでいいんじゃね…て感じ(努力はすんですよ、その中で一応)強くなってるから、今しばらくお庭の野生化は進行するものと思われますね。

ふと思うに自分も今この庭みたいに長い夏の時期を、いずれ代わる季節に結実するなんてまだまだ先のビジョンももてぬまま。節操もなくただただ成長し続けてるんじゃないかと。植物に例えればときどき思いついたようにちょっとした花を咲かせてみたりするかもだけど、それはいってみれば虫や蝶をよび込むための極めて生物的・生殖的な自己アピールな感じに近く、 少々あざといっていうかさ。

花のつぼみとかはかぎりなくエロティックだけど秋の紅葉はまったくエッチな感じしないもんね。ただ意味もなくたまたま美しい…なんてのがホントはいいのかもな。

そしてその先に冬。人の一生に例えると90才以上に相当し、感謝の時期を過ごし次の再生の準備ということらしい。う〜ん、遥か先だー…ってそもそもそこまでたどりつけんのかいな。

そんな先の心境の成熟などは見当もつかぬが、とにかく夏、始まったばかり。

お盛んなことで…。

ET

僕たちのカラダの中のナトリウムもカリウムもこの地球でできたものじゃないそうだ。血液中の鉄分なんかは太陽の8倍以上の大きな星の圧力や温度がないと生成できないらしい。そういう星が爆発して微塵になっていずれ地球も生まれ、そういった星屑(元素)の記憶をもって僕らも構成されているわけだ。だとすればちょっと飛躍した解釈をすればぼくらは根っからの地球人じゃないってことにならないか。僕ら自身も元をたどれば地球外生命体…ET。以上はブツ(物質・素材)の話。で、もしかしたらタマシイもそうした記憶(宇宙意識)をもってるのかも、忘れてるだけで。

僕は前世はニッポン贔屓の異邦人だったんじゃないかなってとこまでたぐり寄せてるんだけど、実はもっと先があるのかも…。

再び2

最近なにかと直感でエネルギーを放出するばかりであったことに気付き多少はinputもとせねばと久しぶりに図書館通いを始めた。とりあえず数ヶ月前、借りたきり途中で返却してしまっていた「親鸞・激動編」(五木寛之)上下2冊を一気読み。浄土真宗ってたぶんこの国で一番広まってる宗派じゃないだろか(ホントたぶんだけど…)ウチの実家もそうだし(そんな根拠か…)。のわりにはけっこう知らんこと多そうな。ほとんどが武士の親玉あたりを扱うNHKの大河ドラマもたまには坊さん取り上げてみたらどうだろか。以前「日蓮」を読んだ時にも思ったが、ヤツらけっこう人間臭くて、別な意味で武家よりもアグレッシブで興味深いような気もするんだけど。いずれにしても平安末期末法の世から端を発する鎌倉新興宗教群は興味深いものがあるのです。

一過

6月の台風が過ぎ去ったあと、ソラの景色を仰ぐと自分は惑星に立ってるんだとあたりまえのことを実感する。道をゆけば折れ散らばった細かな枝や葉が昨夜来の突風で散乱しどことなくあたりは木々の体液のような匂いに充ちている。とくにモミやカラマツなどの針葉樹はその香りが強いようだ。以前山をよく知る友人が、一緒に黒姫を登ったとき疲弊した僕にモミの葉裏をこすって匂いを嗅ぐとミントのような香りがしてちょっとだけ気分がシャキっとなる…なんてことを教えてくれたことを思い出した。そんな彼もすでにこの惑星にはいない。台風の置きみやげでそんなことまで思い出すとは思わなかったのだが…。

再び

描き始める(といってもすでにすすめていたのではあるが)。ちょっと気を抜くと絵の上がモノだらけになってデスクトップに埋没して行く始末。きちんと整理して絵の上には絵の具皿と筆以外は置かないという誓い…。鉛筆の線画だけでもいっかなーって感じだが、獅子塗り始めちゃったんでまた途方もない作業をまた繰り返すことに。でもこれを越えてかないと次ぎ(の絵)に進めない気がして…どうにも回り道がすきな性分。今回はなぜかダンボールに描いてます。

7/21(土)よりの油やグランドオープンにあわせたART PROJECT 沙庭のOPENING EXHINITIONの内容をお伝えします。

神林學「人体」◎主な展示会場:油や本館1F・ART PROJECT 沙庭

佐藤比南子「気配を包む」◎主な展示会場:油や新館1F・蝙蝠(奥の部屋)と本館東側の屋外*フェルトを使用したインスタレーションです。

いずれの展示も7/21(土)〜8/26(日)の土日のみが基本ですが夏のトップシーズンなど臨時に営業する場合がありますので、当サイトか油やプロジェクトサイト、Face Book等でご確認ください。

untitled2012,6,15

すべてが必然と受け入れる気持ちも、あるがままにと自分を許していく想いも、人としての思考停止を意味するものではないのだろうな。迷いながら成長していく自由を与えられているのなら、身の回りに漂う不可視なヒントを感じながらすべて自分で決めていけばいい。そしてたぶんうまくいく。その結果が必然なんだと。

たしか似たようなことをボブディランが言ってたな…。わざわざ本からその一行を抜きだして部屋のどこかに貼っておいたはずなのに探してみたが見当たらない。やはりヒントはいつも身のまわりにあったんだ。ふと気付いてみたり、また忘れてしまったり…。何年も後にこうしてまたあらためて腑に落ちてみたり。いったい何をやっているのやら…。

願いと祈りのちがいがまだまだあいまいな自分にはかなり負荷のかかる宿題となるが、ま、それもいたしかたなし。

カラダに力がみなぎってるときはなかなかこうした想いにとどきにくいのかも。たとえば適当に不自由があったり、イタミを抱えていたりい、枯れていったりするのも悪くはないのかな…などと。

そういえば親鸞なども「南無阿弥陀仏」が真に正しい言葉なのか最後までわからなかったんじゃないだろうか。それでも信じ抜く覚悟のようなものは感じる。ただそうでないものにとって結局言葉やアイテムにたよるのはリスクがありそうだ(でも仏画は描くけどね)。だからやはり自分のココロに誠実に寄り添うってことなのねー。