untitled2012,6,15
- By jin
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- On 15 6月 | '2012
すべてが必然と受け入れる気持ちも、あるがままにと自分を許していく想いも、人としての思考停止を意味するものではないのだろうな。迷いながら成長していく自由を与えられているのなら、身の回りに漂う不可視なヒントを感じながらすべて自分で決めていけばいい。そしてたぶんうまくいく。その結果が必然なんだと。
たしか似たようなことをボブディランが言ってたな…。わざわざ本からその一行を抜きだして部屋のどこかに貼っておいたはずなのに探してみたが見当たらない。やはりヒントはいつも身のまわりにあったんだ。ふと気付いてみたり、また忘れてしまったり…。何年も後にこうしてまたあらためて腑に落ちてみたり。いったい何をやっているのやら…。
願いと祈りのちがいがまだまだあいまいな自分にはかなり負荷のかかる宿題となるが、ま、それもいたしかたなし。
カラダに力がみなぎってるときはなかなかこうした想いにとどきにくいのかも。たとえば適当に不自由があったり、イタミを抱えていたりい、枯れていったりするのも悪くはないのかな…などと。
そういえば親鸞なども「南無阿弥陀仏」が真に正しい言葉なのか最後までわからなかったんじゃないだろうか。それでも信じ抜く覚悟のようなものは感じる。ただそうでないものにとって結局言葉やアイテムにたよるのはリスクがありそうだ(でも仏画は描くけどね)。だからやはり自分のココロに誠実に寄り添うってことなのねー。