Jin Nakamura log

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仏母

自分自身をなんとかダマして元気なフリをしているつもりでも実はわかる人にはわかるようで、「アヴァンギャルドクロッキー展」搬入作業中「あなたは今日は早く帰って寝なさい」と同展出展者で日本画家の生井巌氏(虚無僧になりたい人です)より何げなく諭される。なにか後ろめたく隠してるものを見透かされた感じでドキっとした。忙しい生活などけして美徳ではないことはわかってるのだが…。とはいえ実はその日、当の本人生井氏の齢70才の誕生日ということで結局彼の言うことを聞かずまた飲み明かしてしまうことになるのだが。そんな彼が翌日の忘年会の日(性懲りもなくまた呑む)おもむろにカバンから取り出して僕に託したのは「仏眼仏母」他4体の写仏画であった。どういうつもりでその精緻に描かれた仏画を僕に渡すことにしたのかは結局聞かず、なにより尊敬する作家の真筆であるし、しかも仏画であるし、ただただ嬉しくてありがたくいただいた次第。後で考えるに、あまりにも疲れて可愛そうな僕にきっと元気を出しなさい…と励ましてくれたのだと思っている。事実その日も結構深酒をしたのにも関わらず翌日なんとか元気をとりもどし、件の横尾氏の公開制作に府中まで出かける気力が湧いてきたのだ。仏像も仏画も何かを信じたい人間の脳が生み出してしまった“シルシ”にすぎないと見る向きもあるだろうが、そういものが人の身体とココロを奮い立たせることもまたある。写仏画には仏の名称や(おそらく)梵字の発音表記、出展原本の情報なども丁寧に記録されてる。その中の2体に「仏母」という文字が表記されていて興味深い。初めて目にする言葉だが以前、胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅を母子(子は男の子だったか…)の関係で宇宙全体を思考しようとする解説を読んだことがありそんなことをちょっと思い出した。

books+exhibition

Eテレテキスト「仏像拝観手引き」…東京藝大の文化財保存学(同大学院保存修復彫刻研究室)の一木造り・寄せ木造り・脱活乾漆像の模刻制作過程が写真解説されてるの発見、即買。国立のしかも一応我が国芸術教育の最高学府の研究機関なのだからあたりまえのことかもだが、その恵まれすぎた研究・制作環境は羨ましい限り。国宝級の仏にさわったりできる特権とか与えられてるのだろうか…いいな。さて師をもたぬアウトローな造り手としては定朝以来の正当系譜をめざすか、下野遊行の円空・木喰的スタイルを探るか…ま、たぶんそのどちらでもないんだろうが最終的にはなんとか仏師としての仕事を残したいところ。

アミダサマ」沼田まほかる・著…初めて読む作家。タイトルにチトひっかかったてのもある。著者の主婦・僧侶を経てってplofileにも興味有り。一応カテゴリーはホラー・サスペンスということらしい。

明日から先日本焼き焼成した酒器の上絵付け作業に入る。

「第8回 クロッキー展」参加・ギャラリー 悠玄(東京・銀座)12/5(月)~ 12/10(土)11:00~19:00(最終日17:00まで)◎「クリスマスポケットアート展」参加・えすぱすミラボオ(東京・神楽坂)12月7日(水)~12月17日(土)◎「ART POTLUCK 2011/クリスマスギフト展」参加・元麻布ギャラリー佐久平(長野・佐久)12/8(木)~ 12/23(金)11:00~19:00(最終日・クロージングパーティー17:00〜)◎「アヴァンギャルドクロッキー展」参加・えすぱすミラボオ(東京・神楽坂)12月20日(火)~12月26日(月)…ってダイジョブか?…

細胞膜

2週間近くたったのでそろそろインフルエンザの抗体ができあがる頃か。こうして僕らは故意にせよ、またカラダの自然な仕組みせよ、外的圧力から我が身を守るため、より強固な免疫抗体を自らの細胞膜のなかにつくっては自分の世界を完結にしてその中で豊かに、楽になろうとする。自分と外界を分けるこの細胞膜があるかぎり…だからそれは生物としての生存条件なのだけれど…本当の安心にはたどりつけないというのか。Buddhaのいうところの「一切皆苦」…生きていること自体が苦しい…とはそう言うかとかとも思うけど、「膜」の中に閉じこもって悦に入ってる幸福感を個性というか?とも思うけど。でもそれじゃそもそも生きてられないじゃん!てことになっちゃうし、その前にまずはこの課題山積の冬場にインフルエンザにかかるのは困るし…。ま、とにかくこうして“生物”としての自分に気づくときあらためて生きるってタイヘンなことしてるのね…て思わなくもない。「仏教が好き」(河合隼雄×中沢新一)は自分にとってバイブル(仏教だからお経か?)になりそうな1冊。
昨日の雪はいつのまにか冷たい雨にかわって降りつづけている。
いいうたみつけた…ハスキーボイスって好きね。レゲエのリズムも好き!

セツナサとカナシミ

仏教には“幸福”という言葉は無いらしい。この言葉はありがちな話だが明治期に西洋の文化・言語が日本に入って来た時に“happiness”にあたる言葉がなく強制的に造語されたとのこと。そのルーツをたどれば胡散臭さがなくもない。一切皆苦と悟った仏陀が「とは言いつつも…」ということで求めたのは、だから“幸福”ではなく“安・楽”ということ。“ハッピー!”ではなく“リラックス”なのだそうだ。一応今は日本人なので感覚的にわかるような気がする。“幸福”を求めたらキリがないような気がするけど“安・楽”だったら「ま、いいか…」って感じ? そうは言っても煩悩や欲は文化を生むし、もし「ま、いいか…」って悟っちゃったりしたら僕は絵を描かなくなるかもしれない。“煩悩即菩提”と自分に言いくるめたいところ。セツナサやカナシミをリラックスして乗り越えられたさぞかしスゴイんだろうけど…そもそも“乗り越えよう”とする発想がまちがってるのか。ケンシロウは“哀しみ”を背負うことで、過去二千年の伝承者の誰もが会得できなかった究極奥義「無想転生」を極めラオウと対峙する。悟空は穏やかな心を持ち、強い“悲しみ”にさいなまれてスーパーサイヤ人に覚醒した。しかし彼らは果たして“カナシミ”を乗り越えたのだろうか。戦いはその後も延々と続く(それぞれ最終回までジャンプを買い続けたので僕は知っている…)。う〜ン…ムツカシイ…やはり秋は物思いにふけってしまうものなのかな。

山麓帰郷

2日で戻るつもりがやはりムリか…結局3日間留守にして山麓に戻る。いつものことだが標高にして1000M近い移動は気温差ありすぎ!特に7日の都内はこの季節にしては異常なぬるさでありT-シャツでも過ごせそうな(事実皮下脂肪の多そうな人はそうしていた)陽気で季節感絶対オカシイ。それでも山麓はきっちりと寒く、秋の深まりは確実。さてミラボオ1周年記念展に急遽組み込まれた3日間だけの特別展、初日たくさんの方々にお見えいただき感謝です。3月までには課題も山積みですがなんとかしなきゃね。

さて[recently books]をこのところアップしてこなかったのでここでまとめて。これは自分のために記録を残してます。読んだ本のタイトルを忘れちゃう)「薬指の標本」小川洋子/「伏 贋作・里見八犬伝」桜庭一樹/「裏閻魔」中村ふみ/「男女(オスメス)の怪」養老猛+阿川佐和子/「人形作家」四谷シモン/「私と直感と宇宙人」横尾忠則/「百億の昼と千億の夜」光瀬龍/「百寺巡礼・奈良編」五木寛之/「仏教が好き!」河合隼雄+中沢新一…こんなところかな、やっぱりなんか忘れちゃってるのもあるような気がする。ま、そういう本はあまり身になってないんでしょうね。そんな中で気になる1冊は「仏教が好き!」河合隼雄+中沢新一。図書館読書週間企画10冊まで貸出しOK!ということでつい手に取ったもの。タイトルが軽い(装丁も、しりあがり寿でさらに軽い)のでホントに軽い仏教ブームに乗った啓発本みたいなのかなと思ってたらさにあらず。それなりに平易な雰囲気に編集されているようなのだがなにせ二人の智の巨人の対話集。宗教学・心理学の聞き慣れない専門用語がバシバシ飛び出し(なので注釈の量がハンパじゃない)僕のような凡夫にはちょっとキツい側面もアリ…なんだが、かれらが大まじめに語れば語るほどまたどこかユーモラスで(たぶんとても発想がユニークなんだと思う)ムツカシイんだけど引き込まれる。下ネタで恐縮ですが「釈尊と弟子のセックス問答集」の項目は笑える…というか古代インド人のそっち系の妄想力には唖然とします。仏陀も冷静に対応していたようですが本音は「おまえらエエカゲンニセェヨ!」ってことでしょう。とにかく今週のオススメ(来週があるかはわかりません)です。

“ランナーズハイ”ならぬ“トラベラーズハイ”のまま日常への順応作業をすすめている。さてそんな中、今日からすこしづつ旅の報告をしていきますね。まずは今年の展示風景から。昨年の「旅するハコ」から一転して「田んぼアート」を借景に二人の菩薩に対峙してもらって静かな空間になってます…かね…。

下絵

大好きだったのになんとなく避けていたモノと、絵を描くことにちゃんと向き合ってみようかと思う。どこまでできるかわからないが…。秋にはなんとか1作発表できればと。下絵を何枚も書いていたらシャーペンダコができた。グリップの部分が金属だったのがいけなかったか。ゴム製のものを買ってこよう。*recently reading:「マイ仏教」みうらじゅん(新刊購入)/「草枕」夏目漱石(同居人購入)/「陰陽師・生成り姫+付喪神の巻」夢枕獏(再読)/「バカの壁」養老猛(古書購入百円也)/「ばんば憑き」宮部みゆき(図書館)/「現代語訳般若心経」玄侑宗久(再読)

Zen

「禅」はあたりまえだが本来怠け者体質の我が身には荷が重く、夏場、背中のバックプリントにカリグラフィーにて“禅”と描かれたTシャツなど身にまとい悦に入っているくらいがちょうど良い。ただ難解で魅力的な思想であることは間違いなくSAMURAIや茶人ではなくとも欧米人などが科学や智の大系ではおよそ説明のつかないこの東洋の不可思議なテーマに食い付くのは全く理解できる。故にこの件については中途半端な知識ほどその障害になることはまちがいなさそうだ…ということは少しわかったので以後言葉はできるだけ感じながら読み進めることとする。なにより途中々に出現する高名な祖師たちの漢文や候文等は内容の理解の上では大きな障害なのだが、「漢字」はただながめているとなんとなく意味が伝わってくるような気がしないでもない。ま、そんな気がするだけかもだが…。

Buddhism-2

世界中であまねく信仰されている他の宗教と大きく異なる点の一つは仏陀が普通の人間だったということだろか。彼は何の予言もしていないし、海を分けて道を作ることもしていない。王家の息子ではあったがちゃんと人間のお父さんとお母さんの普通の行為の末生まれている。もちろん神ではないのでハデな奇跡は一切起こしていないのだ(弟子の中には超能力者はいたようだが)。ただただ普通に悩んで闇雲に修行をして、それでもだめだめで、やり方変えようと思ってふとチカラが抜けたところ菩提樹の下で悟りを開いたわけでしょ(見てきたわけじゃないけど…)。しかも開いた悟りは「一切皆苦」。この世は苦しい…じゃ、どうすんのってわけで、その後彼の弟子たちが仏陀の口伝を途方もない年月を重ねて整理・解釈を連綿と続けた結果が現代の多様なBuddhismにつながる。偶像作るな、葬式すんな…。僕らが今のお寺さんから受けるイメージとは大きくかけ離れた原石の姿も興味深いが、その後の人たちが様々な想いで思考した大系もまたすばらしいと思う。要は神の言葉ではなくとことん人が創ったということである。その辺が魅力かな。それはそうと、後の人たちが師の教えを無視して偶像崇拝に手を染めてくれちゃってよかったかも…。それだけ仏陀の面影を伝えたかったのかね。このあたりのエピソードも人間ぽい。(まだ続く…かも)

Buddhism

いい機会だからこれからしばらくBuddhismにハマることにする。とは言ってもこの件については波があり10代の頃に「ちょっとカッコよさげ…」という理由で密教と空海に興味を持った第1次マイブーム以来、概ね第4次くらいってとこかな。入口はなんといっても仏教美術。教義云々よりもそのビジュアル世界にまず引き込まれるわけだが、もともと言ってもわからぬ凡夫(おバカさんてこと)にその世界観を感覚的に納得させる有効な手段としてあったわけであろうから別に動機としてはけして不純ではないと心得る。

たまたま今回の震災以前から哲学者・梅原猛「日本仏教をゆく」を読み進めていたが、その中で聖徳太子以来先人の宗教者たちはそもそも学んだ先の中国や朝鮮諸国と比べても突出して多くの宗派分派を創り多様な方法論で「どう生きるか」を模索し続けてきたかを知るに至る。一定の伝統を有するものだけでも十三宗五十六派というから驚きだ(キリスト教もそのくらいあるのかな? カトリックとプロテスタントくらいしか知らないが…)。ただ残念なことにそのほとんどが江戸時代の檀家制度と明治の廃仏毀釈で壊滅的なダメージを受け、本来のポジティブシンキングな機能をほとんど失いかけている感は否めない。もちろん祖先を供養する気持ちは大切であるし、そこを否定する気もないが今回のような現代の末法の如き人智では如何ともしがたい事態に直面した時、やはり今を生きる人々の指針となってほしいものだ。星座占いでも高価な壷でもなく、そんなことで右往左往するのではなくてさ。さて今日から名著とされている英文対訳(もちろん日本語だけ読む)『禅と日本文化』鈴木大拙に挑戦。近代の宗教家の本は初めて。(to be continued.)