セツナサとカナシミ
- By jin
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- On 15 11月 | '2011
仏教には“幸福”という言葉は無いらしい。この言葉はありがちな話だが明治期に西洋の文化・言語が日本に入って来た時に“happiness”にあたる言葉がなく強制的に造語されたとのこと。そのルーツをたどれば胡散臭さがなくもない。一切皆苦と悟った仏陀が「とは言いつつも…」ということで求めたのは、だから“幸福”ではなく“安・楽”ということ。“ハッピー!”ではなく“リラックス”なのだそうだ。一応今は日本人なので感覚的にわかるような気がする。“幸福”を求めたらキリがないような気がするけど“安・楽”だったら「ま、いいか…」って感じ? そうは言っても煩悩や欲は文化を生むし、もし「ま、いいか…」って悟っちゃったりしたら僕は絵を描かなくなるかもしれない。“煩悩即菩提”と自分に言いくるめたいところ。セツナサやカナシミをリラックスして乗り越えられたさぞかしスゴイんだろうけど…そもそも“乗り越えよう”とする発想がまちがってるのか。ケンシロウは“哀しみ”を背負うことで、過去二千年の伝承者の誰もが会得できなかった究極奥義「無想転生」を極めラオウと対峙する。悟空は穏やかな心を持ち、強い“悲しみ”にさいなまれてスーパーサイヤ人に覚醒した。しかし彼らは果たして“カナシミ”を乗り越えたのだろうか。戦いはその後も延々と続く(それぞれ最終回までジャンプを買い続けたので僕は知っている…)。う〜ン…ムツカシイ…やはり秋は物思いにふけってしまうものなのかな。