最終日前日だったから仕方ないのだけれど公式図録はすでに完売とサイトにあったので、残念だが今回は荷物にならないからまあいいかと思っていたのにミュージアムショップには公式図録以外の生賴範義関連の画集が山積みされており結局2冊も購入してしまった。
僕は正直この画家の仕事はよく知らなかった。もちろん友人の画家・オーライタロー氏の父上であり著名なイラストレーターではあるので、どこかで彼の仕事を原画という機会はなくとも、何かしらのメディアでは見ているんだろうな…とは思っていたが、まさかアレもコレもエー、そんなものもーということで改めて自分の不勉強さを反省。
タロー夫人からは「お腹いっぱいになるよー」と言われていたのだが、まさにそのプロフェッショナルな仕事に感腹(服)。筆一本で生き抜いてきた凄みに感じいった。
仕事のほとんどはクライアントがいる受注仕事なので、当たり前だがテーマや素材・モチーフといったものには当然制限(要望・要請・ときには時間も)があり、それを確かな技術と感性でクリアしていくのが仕事になるわけだが、この仕事形態は中世あたりまでは美術業界では至極普通でイラストレーターだろうが画家だろうが同じ事だ。この手の請負仕事とピュアに内発的衝動のみで生み出された作品においてその表現性には優劣など本来ない。
例えば安土桃山あたりから頭角を現す狩野派などはそのモチーフも制作手法も表現集団として極めて様式化されてはいくが、そのクライアントは信長・秀吉・家康と続く戦国武将たちであるから、ある意味命がけで絵を描いている。「ちょろっとパッションでこんなんできちゃいました〜」なんて信長さんち(安土城)の襖に描いちゃったら首がいくつあっても足らないのだ。命がけで絵を描くのだからそりゃ後世に国宝にもなろう。
近世の幕開けとともにARTは自由を手に入れ始めた。金箔の地に大きな松を描かなくても良くなったし、聖書の一場面を正確に再現しなくても良くなった。自らの感性に寄り添って、光にきらめく睡蓮や情熱的なひまわりを描き始める。でもその自由と引き換えにクライアントを失い、絵を描いたり彫刻を作ったりしながら生き抜く事が簡単なことではなくなったのも事実。
生賴範義の仕事はそんな中で表現者としての一つの生き様を提示してくれている。もちろん一人一人ちがっていいし同じ事はできないが、あれだけの仕事(質・量ともに)を潔く描き残した画家の79年の生涯をこの機会に垣間みれたことは自分にとってはラッキーなことだったかもしれない。
余談だが友人・オーライタロー氏がなんで漢字の「生賴」の表記にしなかったのかちょっとわかった気がした。…あくまでも気がしただけであり、単に漢字が読みにくいということだけかもしれないけれど。