Jin Nakamura log

腹帯をしめるのなら戌の日に、熊手を買うなら酉の日に。
そんなわけだからその年に初めて薪ストーブに火を入れる日も験かつぎ的になにか決まり事がありそうな気がしないでもないが、いちいち調べるのも面倒であるし、第一ここ数日11月後半並の寒さと長雨を灯油ストーブでしのいできた限界もあり、もう我慢できずと秋雨前線の晴れ間にちょいと屋根にのぼり、ちゃちゃっとエントツ掃除をして今シーズン初めて薪ストーブに火を入れることにした。
貴重な燃料節約のために一時は達磨のように着込んでいたが、そういうわけで本日部屋の中ではTシャツ二枚の重ね着程度でも大丈夫。
こうして過ごしやすさに余裕が生まれると、しばらくほっておいたブログなども更新してみようかという気分にもなろうというもの。(さっぶ〜い仕事場ではキーボードに触るのもおっくうになるもの)
さて、この頃たまに会う人に「最近ご活躍で…」などと社交辞令的挨拶をいただくことがあるのだが正直何をもって“ご活躍”なのかよくわからないし、ほめられ上手でもないので都度「ぼちぼちでんなー」みたいなニセモノの関西人みたいな返答しかできないでいる。
実際日々淡々と目前にある仕事をこなしているだけで、当たり前だが一世を風靡してるわけでもなく社会を席巻してるわけでもない。SNSなんてツールもあるものだからべつに盛ってるわけではないけれど仕事上の告知情報だけはささやかな営業と心得、面倒くさがらずできるだけアップしようとつとめてるので、なんとなくめっちゃ忙しくてご活躍な感じにうつるやもしれぬ。
ただ慢性的に時間が足りないのは確かで、けしてヒマを持て余してるわけではないけれど、それは生来の不器用さが招く一因と、なんか余計な回り道をする性とによるもので、人気急上昇引く手数多てななわけであるわけがない(これもあたりまえだが)。
そう言うわけでまったくもってナカムラなど絵に描いた(描き方わからんけど)ような“無名”でジミ〜にやってるのである。が、最近しかしそれはそれでま、いっかという気がしないでもない。もちろんココロのどこかではちゃっかり有名になって天狗になって鼻持ちならないヤ〜な感じなヤツになってみるのも一興かなと思わぬでもないが、有名になるならないない、あるいは世に名を残すかどうかなどというものは、そもそも自分の意志でどうこうなるものではないし、そんなことに一喜一憂してるヒマあれば己の芸を磨くべしとは一応心得てるつもりなので、日々こうして何かしら表現のお仕事をさせてもらってるだけでもホント感謝なのだ。
しかしムメ〜ムメ〜と逆にヤギみたいに面白がって騒いでいると(ココロノナカデ)ふとバブルがはじけた90年代初頭のころに読んだある有名骨董商の手記を思い出した。日常の何気ない(名もない)古道具などの中にこそ高い芸術性を感じる…といういわゆる「無名性」礼賛みたいな内容だったと思う。
バブルがはじけて金にモノを言わせたお祭り騒ぎが幕を引き、その反動で時代は一気にストイックになり、例えば陶芸の世界では生み出されるカタチはシンプルになり、色が消え、その後10年間陶芸関係雑誌の特集が「白い器」だったような記憶がある。
「無名」に「芸術性」を見いだしたのは確か(不確かかも)柳宗悦らが提唱した「民藝運動」あたりがルーツではなかったか。その趣旨はわからなくもないが柳のような「有名」な人物が「無名性」というブランドを宣言した瞬間から、残念ながらそれはもうすでに自由を奪われた権威となろう。
正しい意味での「無名性」が「無名」であり続けられることはある意味ホントの幸せなのかもしれないし、それが本物であればあるほど世の中は放っといてはくれず、そしてしのほとんどは台無しにされる。有名なのもの中にニセモノが多いことと無名のものの中にホンモノが隠れていることはさすがに知っている。それを見いだす尺度は自分を鍛えるしかないことも。
運慶は初めて自分の作品に署名をした仏師である。平安期までは作者名が伝わってはいても作者自らが仏像に名を残しすことはなかった。特に平安時代の仏画は優れた作品が残っているがそのほとんどは無名であるのだ。どちらの善し悪しということはわからないけれど、たとえば「無我の境地(自分無くし)」という悟りを求めたとしたら、その時点でそれは「悟りを得たい」という欲望ということにはならないか。ま、だからそれでも悟りを開いたお釈迦さんてスゴいんだけどさ…。

N-ART展2017

第7回 N-ART展 2017
会期/2017年7月29日(土)~8月14日(月)

■出品作家
小山利枝子(長野市)ナカムラジン(御代田町)上田暁子(小諸市)更級真梨子(八王子市)
[特別出品]根岸芳郎(岡谷市)

■ギャラリートーク
8月5日(土) 14:00~15:30
ゲスト:本江邦夫(美術史家・多摩美術大学教授)

■オープニングパーティー
8月5日(土) 16:00~お気軽にご参加ください。

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発売記念展

本日7/27(木)〜8/6(日)まで、信州諏訪の銘酒蔵元・宮坂醸造「真澄」蔵元ショップ Cella MASUMI(セラ真澄)松の間にて、真澄アーティストラベル2017発売記念・ナカムラジン展[偶像寓意花鳥圖譜]が始まっております。

諏訪は日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在する全国諏訪神社の総本山・信州一宮「諏訪大社」4社(上社/本宮・前宮 下社/春宮・秋宮)があります。有名な国譲り神話の中で、後のヤマト政権・天津神勢力と唯一激しく抵抗、戦った出雲系の武神・建御名方神が鎮座され、4社ともそれぞれに異なった独特の雰囲気を持っています。また建御名方神が信州に渡る以前の諏訪地方の土着神・ミシャクジ神の信仰には、より原初的なニュアンスも加わり、同じ土地にさらに時代を遡る日本有数の縄文文化の痕跡も感じることができます。とにかく諏訪は原初的で不思議な場所なのです。ちょっと勝手に諏訪観光大使みたいになっちゃいましたが、機会がありましたらパワースポット巡り方々展覧会にもお出かけください。
*MASUMI Artist Label 2017に使用された原画作品は7/29から開催のN-ART展(ガレリア表参道・長野市)に8/5より展示されるため、今回の展示は8/4までとなります。ご了承ください

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◎アートと酒の出会い展/真澄アーティストラベル5周年記念
日程 2017年7月16日(日)~24日(月)
   10:00~18:00(日・祝・最終日は17:00まで)

出展
小山利枝子(2013)/たかはしびわ(2014)/吉村正美(2015)/近藤英樹(2016)/ナカムラジン(2017)

初日7月16日(日)のイベント
15:30~16:00
オープニングトーク 横山タカ子×宮坂直孝

16:00~17:30
オープニングパーティー

18:30~19:30
信州放送人が読む会:日本酒を楽しみながらの朗読会
出演:生田明子(SBC)・伊東秀一(TSB)

文藝春秋挿画

文藝春秋8月号の目次挿画を担当させていただきました。画角がとても横長なので、お話をいただいたとき、どんな絵にしようかちょっとだけ考えちゃいましたが絵巻物みないで楽しかったです。異なる時間を一つの構図の中に描き込む異時同図法みたいなのも今後はやってみても面白いかもしれません。

タイトルは「海幸講」、この季節にはピッタリです。海の彼方から蛸・龍・伊勢海老・鯛・鰹・宝舟などがやってきます。一方、山からは大きな桃が…。

7/10発売です。よろしかったら書店にてどうぞ。

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ご縁があり、2009年より信州諏訪の銘酒・宮坂醸造「真澄」さんの総合パンフレットの表紙画を描かせていただいます。また2013年より美酒とアートのコラボレーションプロジェクト「MASUMI Artist Label」の企画にも携わる機会もいただき、長野県ゆかりの美術家が地元の銘酒のラベルを飾るという素敵なプロジェクトのお手伝いも続いております。

ということでこの件につきましては基本的に裏方で、まさに橋渡し的な役回りと心得、でもちゃっかり10年目くらいにはチラッと僕も〜登場できたらな…的な感じで密かに目論んではおりましたですが、なんと10周年の前に5周年というのもあるらしく、ひとつの区切りとして“キミやってみなさいと”の成り行きに相成りまして、僭越ではございますが私ナカムラがこの度、ラベルデザインを担当すとことなり…なんて結婚式のスピーチみないな挨拶はさておき、手前ミソ+お手盛り的て恐縮ですがなんかホントいい感じで仕上げていただき、ここにパッケージ写真を公開して感謝申し上げる次第。

+以下に真澄蔵元・宮坂直孝氏のメッセージを添えて紹介いたします。

真澄Artist Labelへの想い◎諏訪で生まれ、諏訪の風土と人に育まれた真澄。この愛すべき故郷をもっと魅力的にしたい。美しい景色、美味しい食べ物、そして楽しい出来事にあふれた街にしたい。非力な田舎酒屋がこんな夢を抱くのが荒唐無稽なのは百も承知。しかし、蒔かない種は花を咲かせません。できることから一つずつ積み重ねて行きたいと、アーティストラベルプロジェクトをスタートさせました。美酒とアートの協奏をお楽しみいただければ幸いです。(真澄蔵元  宮坂直孝)

【MASUMI Artist Label 2017】 価格 ¥2,376(税込)アルコール分13度。軽やかで飲みやすいタイプ。香り高く上品な味わいです。お求め先については真澄ウェブサイトをご覧ください。
真澄アーティストラベルは「真澄」とArt Project 沙庭の共同企画です。

真澄アーティストラベル2017発売記念
ナカムラジン展[偶像寓意花鳥圖譜]
2017,7月27日(木)→ 8月6日(日) open 9:00〜18:00
会場◎蔵元ショップ セラ真澄 [松の間]

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龍にまつわるエトセトラ

フォッサマグナを発見し、大昔のゾウにその名を残すドイツの地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが開国の御代に都に隣り合う湖国で見つかった龍の骨を太古のゾウの下顎と看破してみせた。しかし時の明治政府のお雇い外国人がこの国に来る機を得ず、もし本当に龍の骨であったということになったとしたら龍は死んでいたことになる。「龍が死ぬ」…ということは当然「龍が実存する」ということになる。先端の科学はそういう類いの実存の疑いをことごとくつまびらかにし、本来あたらなくてもよい部分にまでおせっかいにもヒカリをあて続け、世間を必要以上にシラケさせたかに見えたが、おっとどっこい博学とはほど遠い民草はといえば、日照りになれば相変わらず土地の龍の祠でご祈祷をして黒雲を呼んでみせ、当然龍が死んだ証拠などに一喜一憂することもなく、「生きていようが死んでいようが、気骨のある魂にはそんなことあまり関係のないことなんですよ…」と地元のおばちゃんは名言を放った…らしい。

かねがね龍を描くなら格好よく美しく…を信条にと思っていた。

初夏の京都鴨川左岸。四条大橋の一本南側の橋のたもとの街路樹がちょうど正午前の日差しを遮る風情であったので、対岸の木屋町界隈散策の疲れを一時癒そうと川べりに腰をおろし、心地よい風に吹かれしばし鴨の流れを傍観しつつ近辺にめぼしい名所旧跡などあるまいかとiPhoneの画面でmapを拡大すれば、背中腰に建仁寺の広い敷地が表示されている。徒歩2〜3分の距離であろう。
「ああ、双龍に逢え…」ということかと合点して、勇気をフリシボリ再び日差しのもとに身をさらす(暑いのホント苦手なんだ)。できるだけ日陰を選びつつ(なんか湿気を好むムシみたいだけど…)歩きながらつらつら思い起こすに、たしか京博での展示を見逃した海北友松の雲龍図もそもそもここの障壁画ではなかったか。
見上げればおよそ龍の出現など期待できそうもない雲ひとつない真夏のような青空。ならば自らおもむき龍の巣窟たる臨済宗古刹の門をたたこう(入場券を買う…とうことです)ではないか。
残念ながら期待した海北友松の雲龍図は高精細レプリカであったけど、どうせ美術館で原画をみたとしてもガラス越しだし、これはこれで本来あるべき空間で感じるという意味では見応えがあったかも。ひとしきり鑑賞という名目で涼みながら本坊を回遊した後、小泉淳作画伯が2年の歳月をかけて制作した双龍図のある法堂へ。不思議なものでそういえば上洛する直前に何気にこの双龍のメイキング特集をTVで見ていたことを思い出した。そうだこの龍たちは北海道で描かれていたのだった。大丈夫かなぁ…北国生まれなのに、この都の夏…。どっぷり寒冷地仕様のカラダになってしまった僕はそんな杞憂もしたりしながらうっとりと天井を見上げる。

龍を描くなら格好よく美しく…。

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続編から読む。

酔い覚ましに立ち寄った阪急京都線大宮駅の地上階にある本屋の平積みコーナーで、ふと目に留まった文庫本のタイトルは「冬虫夏草」。フユムシナツクサ…いやトウチュウカソウ…か、どちらにしても??。この虫なのか花なのかビミョーな感じの題目が妙に気になり手に取って数行黙読し、なんかイケそうな気がしてレジへ直行。そこから徒歩4分のホテルにもどり結局数ページ読んでそのまま寝てしまい、きちんと読み通したのは長野に戻った1週間後だった。

おそらく明治期の、ある物書きの日常が描かれているに過ぎないのだが、その日常がどこかヘン。現代のぼくらから見ると本当はだいぶヘンなのだろうけれど、おそらく筆者の品格のあり細部にまで心を砕いた言葉の紡ぎ方故だと思うが、“そんなこともあるよね…”と思ってしまう不思議。主人公が印象深い邂逅を果たす河童の少年も、天狗も、幽霊も、赤龍も、そして鈴鹿山中で宿を営むイワナの夫婦も。言葉にするとやはりオカシイ。スピリチャルといえばそうかもしれないが、なんか平凡なのである。平凡で美しい霊性。少し以前に読んだ泉鏡花の「高野聖」とはまたひと味ちがうのだなぁ。

“目に見えないモノ”をぼくらはどう処理するのか。友人の尊敬するお坊さんは真剣な表情で「信じるというようりそのように“理解”している」と言った。「ある」と思った瞬間にソレは「存在する」と、妖怪を生涯描き続けた漫画家のおじいさんは言っていた…ような記憶がある。そして何も見えない僕は「あってほしい、いたらいいな…」と思っている。

結局モノノケも神さんも仏さんもだれも見たことないじゃん!…実証的世界ではそういことになっている。でもね一方で「なんで人を殺しちゃいけないの?」の答えを倫理でも常識でもなく「祟りがあるからだよ」って言われたらとりあえず震え上がるほど納得しちゃう。全編「花」のなまえのタイトルで綴られる主人公の風変わりな日常は、たとえば現実的な閉じられた世界も、あるいは暗闇のなかでとらわれる禍々しい不安な感情も、そのどちらも穏やかに解きほぐしてくれるような気がするのです。

このささやかな冒険譚は実は続編であったことに読み終えてから気づく。読み始めてどうも設定がイマイチ不明でお話においていかれてる感があったのはそのためであった。しかし続編から読むというのはわるくない。逆に詳細な説明をさきにされてしまうと興ざめということもあるし。かのスターウォーズもエピソード4から始まってるしね。

また脇役たちの話す京言葉も1週間滞在した旅の風情も重ね合わさり物語のリアルな日常に介入できたし、余談だが話のなかに自分が住まう信州佐久のエピソードが盛り込まれており不思議な縁を感じてしまった。何れにしても我がココロの10冊にエントリーしたい1冊であるぞ!たぶん。

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東京銭湯考

少し以前のことだが、展覧会準備のため珍しく都内のビジネスホテルを利用した折り、ホテルの宿泊券に近くの温泉チケットがついていたので利用してみた(実はめっちゃ温泉好き)。都内で温泉のイメージはなかったのだが最近は大手町あたりの新設超高級ホテルでも温泉がでるとかで、とにかく関東ローム層は深くさえ掘ればでるらしい。

さて件の銭湯は池上線蓮沼駅近くにあるその名も「はすぬま温泉」。ホテルから徒歩5分程度とあったが土地勘もない深夜の下町、加えて渡されたいい加減な地図。案の定10分歩くが到着しない。折しも前方の暗闇からグッドタイミングでお巡りさんが自転車にのって現れたのですかさず呼び止め尋ねてみる。フツーなら逆に職質されてもおかしくないシチュエーションなのだが今回は先手を打って聞いたった。僕を良心的な一般市民と認識してくれたらしくきわめて丁寧に銭湯の前までご案内いただき助かった次第。お務めご苦労様でした。

たしか時刻はすでに日をまたごうとしていたのだが深夜1時まで営業ということで、脱衣場に入ってみるとさすがに誰もおらずガラスを隔てた洗い場の方に人ひとりの影が見えるのみ。スッポンポンになって中に入るとおじさんが一人せっせと泡まみれになってカラダを洗浄中。さて僕もと蛇口の前に座って気がつく。シャンプーもボディーソープも置いてない…そっかー銭湯って自分で持ってくんのかー…。僕の地元の立ち寄り温泉はほぼ100%その類いは全ての鏡の前に用意されていてタオル1本で行っても全く問題ないんだけど、そっかー銭湯て子どもの頃行ったきりだもんなー…。仕方がないので白湯のみで体を流し湯船につかる。

もちろんホテルのユニットバスなんかとは比べるべくもなく心地よいわけだが、なんとここの源泉は黒い(黒くない湯船もある)。あとで番台のお兄ちゃんに聞いてみたら海藻やらなんやらいろんな成分が交じってこんな感じらしい。あ、ちなみに番台は脱衣所の中には面しておらず入り口のロビー、男湯女湯の暖簾の前にある。なので番台さんが若いお兄ちゃんでも女性客はぜんぜん大丈夫な感じ。小学生の頃は番台さんて特権だよねー、なんか資格とかいるんかなーなんてて思ってましたが。

そんなわけで黒いお風呂に入ったり、泡ぶくのお風呂につかったり、ちょっとした露天風呂もあったのであっちこっちフラフラしながら、とわいっても酔いを冷ましながらのせいぜい30分。ま、それはいいんです。ナカムラの湯のつかり方なんかどうでもいいんですが、僕が洗い場に入ったときに体をゴシゴシしていたおじさん、僕がもういいでしょうと脱衣に場戻るまでのその間ずぅーーーっと洗い続けておりましたのです。たまたま同じ湯船につかろうものなら「お近くなんですかぁ?」などと通り一遍の一言もかけようものをと思っていたがまったく接点なし。一体どこを洗えばそんなに時間がかかるのだろう。60年代の長髪ヒッピー兄ちゃんだったらもしかしたらリンスしたりとかトリートメントしたりとかそりゃそこそこお時間も必要かもだが、頭髪の感じもそれほど手間がかかる雰囲気でもなかったし。

そして僕は思った。世のオッサンたちは、やれオヤジ臭がどうの加齢臭がどうのと揶揄されて久しいけれど、実はもしかしてめっちゃキレイ好きな種族なんじゃないかと。アライグマなみの習性でマジで一皮剥けるほどの清廉潔白を日々旨としているのではないかと。これはオヤジの見方をかえた方いいんじゃないかと、ていうかむしろオヤジを見習え!

濡れたアタマを渇かそうと大鏡の前のドライヤーを握りしめた瞬間「3分30円」の文字が目に入る。ポケットには湯上がり用のフルーツ牛乳代のコインしか入ってなかったので夜風で渇かすことにして脱衣場を出る。振り返るとおじさんは水滴で曇ったガラスの向こうの定位置をまだ動いてはいなかった。