Jin Nakamura log

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wander TOKYO – 8

主たる目的を果たしたぼくらは、すでにさしたる目的もなくあとは上野恩賜公園をブラブラするばかり。周知のごとく美術・博物館が多くある場所なのでいまさらとも思いがちだが、実はあまり知られていないスポットもいくつか。そのひとつが上野東照宮。徳川家康を神格化して奉ってある場所で日光は有名だがこんなとこにもあるんですねぇ。狩野探幽の障壁画などがあるそうですが今回はパスして、今はお顔だけになってしまった上野大仏がある小山に。こちらの胴体は戦時中に軍需供出され南の海に沈んだとか。興福寺仏頭といい受難の鋳造仏の多いこと。咲きかけの彼岸花などながめながら不忍池方面へ。

一言で不忍池といっても池は大きく3つに分かれ、一面蓮だらけの蓮池とボートを漕ぎながらいちゃいちゃするボート池、鵜の池とある。蓮池のハスの花はすでに盛りを過ぎていたが、広大な池は水面がほとんど見えないほどにその葉でうめつくされていた。芸の神様がいらっしゃる弁天堂はすでに夕刻となり扉がしまわれていたので外からお参り。そのまま八角堂の脇をボート池方面に進み谷中七福神の裏手を右に折れると小さな島がある。あまり知られていない場所だと思うがちょっとあやしスポットかな、興味のある方は行ってみて。

その後、都会では珍しくスズメを餌付けしてる親子を目撃したり、いちゃいちゃボートを眺めたりしつつ、さすがにだらだら歩くのが疲れてきたので御徒町方面にぬけ、街の雰囲気も時間的にも普通ならさてイッパイやりますか…てとこなのだが先生は飲めないのでオッサンらは甘味処凮月堂をめざしふたりで仲良く抹茶あんみつなどをたのんで語らうのであった。

かえりぎわ凮月堂のおねえさんに拾ってきたトチの実をプレゼントして、こんな感じでやっと僕らの一日はおしまい。

あ〜レーポト長すぎ!

 

wander TOKYO -7

やはりこうして3Dモノホン仏を間近にすると仏画もいいけど、やっぱ最後は彫りたいなーって思うのだ。

さて拝観後は先生に付き従い藝大構内をかってに散策。「あいさつをしてこよう…」と言われ創始者の像のもとへ。ふと考えると現代とよく似ている。グローバルなどという薄っぺらな言葉に踊らせれ、安易に世界の流れへ追随しようとした明治期(何度か書いたが僕は維新は大嫌いだ)にあって、あえて日本画という言葉を残し、制服と称しまさに白鳳人を想わせるような古代装束風コスチュームを纏う人…岡倉天心。

かの人は人気のない静かな木立に囲まれたその奥にいた。だれが置いたのか足下に黄色い花が一輪たむけてある。

僕はここの学徒であったわけでもないし、天心…大観…小松均…先生の系譜のほんのはしっこにくっついてやって来ただけだけど、その昔教科書くらいでしか見たことのなかった人がなんか突然目の前に現れて少しふしぎな親近感を覚える。人の縁てそんなものなのかもしれない。

あいさつがすんだ後はさらにづかづか構内奥に踏み込み、ここにも先生のいつか描きたいという”銘木”があるとのことで、それをみてまわりながらいっしょにトチの実をたくさん拾った。ぼくはそれほど欲しくはなかったのだけれど、どんどんくれるので僕のカバンの中はトチの実だらけになってしまった。

wander TOKYO -6

さて、そもそも上野にきたわけはというと「国宝  興福寺仏頭展」を藝大美術館で拝観すべく。あの鋳銅製のどでかいアタマだけのやつ。過去2度ほど対面しているがまったく飾り気のないそのお顔はホント素朴な印象で、ゆえに仏教世界になんとなくゴージャスな雰囲気を指向するぼくは、ただ黒っぽくおおきいだけのアタマにはそれほど魅かれなかったので、ソレが実はどういう謂れのモノなのかあまり知らなかったのだ。

で、今回初めて知った事実。

1,彼は薬師如来であった!…たしかに興福寺といえば木造の十二神将シリーズは有名なのだが、十二神将といえば言わずと知れた薬師如来の守護神なわけで、もっと言うと12人お一人づつには7000の眷属が付き従っているわけで、すなわち12×7000=84000の大守護軍ということになる。この数字を思うとき、いったい彼らはナニと戦うつもりでいるのやら…と。

2,彼は大仏であった!…あたりまえだがアタマであのスケールである。焼失してしまった胴体部分を想像すれば、完全体のそのお姿は尋常ではない大きさになる。お近くの東大寺の毘盧遮那仏には及ばずともこれは十分「大仏」と呼ばせもらってよいと思う。ちなみに座像であったか立像であったかは今となっては確認できないが仮に立像であったらかなりの身長になるので、これを安置するお堂を建てるだけでも大変なことなので、おそらくは座像であったろうな。

3,彼は500年間忘れさられていた!…被災後再興された本尊の台座の下に安置されたまま500年、みなの記憶から消えていたらしい。発見されたのは昭和に入ってからだとさ。アンビリーバボーですな。

4,彼の左耳は大きく陥没していた!…今回会場では頭部を詳細に立体スキャンしたCG映像が見られるので、よくよく見るとそのいたましい事実がリアルにわかる。おそらく被災の際に建物の大きな梁などが直撃したのだろう。

というわけでぼくは是非この白鳳の貴公子と称される彼の本来のお姿を復元して、現存する十二神将をその周囲に各方向を守護するかたちで配置された風景を見てみたいと思うのだ。

wander TOKYO -5

新幹線網が今のように整備されるまでは上野駅は信越および関東以北のターミナルであった。長野オリンピック以前はいわゆる特急あさま上野行きで僕も都心に足を踏み入れてたわけで、荒川をすぎて日暮里が近づき右手丘陵地に谷中墓地の卒塔婆群が見え始めたらそろそろ終点だな…というのが僕の東京に近づく印象であった。今は上野駅の地下3階に新幹線ホームがある関係で少し前から地下に潜ってしまうので、都会の玄関口が霊園風景というちょっとミスマッチな光景に出会えなくなってしまった。

長距離列車の視界からは消えてしまったが、この谷中霊園から南に向かい上野公園、さらに不忍池方面までこの界隈は今もって露骨に面白い。70年代あたりまで残っていた東京の怪しさのようなもながまだかろうじて存在しているような気がする。逆に言うとTOKYOというこの街はまったくシラケてしまった。美しくも怪しくもない街に魅力はない。

そういえば件の上野公園あたりには白い装束 と戦闘帽を被って、アコーディオンやハーモニカを弾いているいわゆる「傷痍軍人」という人たちがたくさんいて、子どもの目には怖さと物悲しさを強く印象づけられた記憶がある。戦後半世紀は疾うに過ぎ、こうした風景も過去のものとなった。昨今ではそんな”白い記憶”に代わってブルーシートハウスの一群が長いことこの場を静かに占有していたが、これもいつのまにか公権によって完全撤去されたらしく、中央噴水広場もきれいに再整備されてとっても健全な公園に生まれ変わっている。先生も上野公園はお久らしく、この変貌ぶりには少々おどかれていたようだ…。

って…あ〜なかなかおわらぬ、、、

wander TOKYO -4

相変わらず先生はカァカァ言い…いや鳴き続けている…そしてカラスは大きな羽音をのこして去っていく。異種遺伝子間コミュニケーションは簡単ではなさそうだ。東京国立近代美術館工芸館の裏手から北の丸公園に入るとすぐに、何れかの宮様の馬上にて凛々しき姿の彫像に出会う。由緒札をみれば日清か日露あたりの英傑らしく志半ばで異国の戦地で殉職とのこと。軽く背丈を超える大理石の台座の上の実物大での鋳造作品は圧巻だ。特に制作者は付記されてなかったがなかなかの腕前の職人仕事とみた。台座の下から仰ぎ見ながらチャイナのカップルがイチャイチャしながらデジカメのシャッターをバチバチ押していた。歴史はさておきそんな時代でもあるのだな。
そのまますすむと大きな玉葱の下にでる。日本武道の聖地では本日萌え系ユニットの催しが予定されているらしく騒然たる賑わいであった。ビートルズ初(…結局最初で最後であったが)来日以来我が国のミュージシャンはおしなべてココのステージをめざすこととなっが、昨今はこんな名も知らぬ(僕だけ?たしかcuteとかいったか)萌えッ子たちが軽く登壇できるんだーへぇ〜…とそんなことに感心してる僕の横で、さすが師は悠然たるもので「ぼくはいつかこのイチョウを描くよ…」と傍らにある老木たる勇姿にうっとりするような視線をおくっている。うかつにも、どのこがカワイイかしら…などとついつい大判ポスターの方に引き寄せられかけていた僕は深くふかく反省し「勉強になりまっす!」とココロでつぶやきながら美少女の誘惑に後ろ髪ひかれつつも先をゆく先生の後ろ姿に追随する。
その後城門を出て内堀通り九段下から東京随一のワンダースポット上野へ。

で、次回はさすがにそろそろ最終回にしよ。

wander TOKYO -3

皇居の周りは有名なジョギングコースであるが、ここを走るとき不思議と疲れないと聞いたことがある。やはり江戸城開幕以来の地の持つパワーなどがあるのだろうか。そんなランナーを堀の土手から見下ろしながら千鳥が淵方面へと歩くのだが、その皇居パワーのせいか都内では珍しく気持ちがよい。地面が土であったということもあろうか。その千鳥ヶ淵を横断するかたちで首都高がそのまま皇居の一部(実際ここは皇居とは言わないのだろうか、少なくとも江戸城内ではあるが)をつっきっていく。前回の東京オリンピックの際に建設されたと思うが、国威発揚お国のためとはいえ宮内庁もよく許可をしたものだな…景観が台無しである。こういう、とりあえず便利になっから、ま、いっか…て感じで増殖しちゃうところが亜細亜っぽいのかな。あのすてきな日本橋だってその構造物とそこから見える風景も含めて無惨な姿にしちゃってもへーきな感覚はそれこそがThat’s TOKYOなんだろか。二度目のオリンピックでまたさらにどんな陳腐なレイヤーをこの都市に構築するのかと思うとちょっと憂鬱。

なかなかすすまないけどまだつづく…。

wander TOKYO -2

得應軒を出るとちょうど頃合いも昼時となり、先生に案内され半蔵門まで出向いてイギリス大使館裏手のちいさな洋食屋で食事をとる。店のそれぞれのテーブル脇の壁には先生の全紙ほどの墨絵の作品が飾られていて贅沢な空間。たしか昼時のメニューは2種類ほどしかなかったがココのハンバークは絶品。まだ30代ほどのシェフであったようだがなかなかの腕前である…が、店の名前忘れちった…。食事の後少し歩こうということになり大使館の石垣の脇を皇居方面に向かう。目の前を右翼の街宣車が通り過ぎる。僕らは極右の思想者ではないが今の体制に満足してないという点と、この国を憂うという意味ではヤツらの思いも分からぬでもないかな…などとふと。ただ街宣車のデザインはいただけない。自分ならもっとカッコいいの作ってあげられるのに…などとまたふと。

右か左かはさておき、いかにも反体制風な風体の師と僕は皇居わきの門番のおまわりさんになんとなく一瞥されつつ、おかまいなしに北の丸公園方向にお堀端をすすむ。ところで一般的にみなさんはいわゆる「ショクシツ」ってやつをこの手の公僕の方々から受けるというチャンスはそうそうあるものなんだろうか。本当に怪しいヤツは怪しくない容姿に紛れてますよ…中途半端なマニュアルに頼らずもっと眼力を磨きましょ…てなことや、大政奉還ってのもありかな〜でもどうせ摂政が腐敗さてくんだろなー…てなことなどとりとめもなく話しながらドングリや蝉の抜け殻ひろったり、松の樹液をグリグリしたり。そして先生は時おりカラスにもかぁかぁ話しかけてもいたがあまり相手にされていないようでもあった。

つづく…。

Our religion

宗教について考えていたらコンビニで雑誌/一個人「日本の新宗教入門」をみつけた。70年代のオカルトブームが去り、そのあげくのオウム事件以来さらに新興宗教アレルギーが続くご時世でこの企画は受け入れられるのかいな…と思いつつ、個人的にはちょっとタイムリーだったのでパラ見。思えば今に続く伝統宗教もそのほとんどは、日本的霊性が高まった鎌倉期に興った新興宗教だったわけだ。平安末期ほどではないにしろ2年前の大震災直後より多くの日本人は心に傷を負い(あるいは共有し)、そこからなんとか立ち上がらんと生き抜くための支えを求めんとするならば宗教というものの本来の役割を果たすまさにその機会であったかもしれない。そういう意味で800年ほどの時を越えて僕らは同時代を生きているかのような錯覚さえも覚える。
さて、件の「新宗教」であるが自分が教祖になる(冗談ですよ)のならまだしも、そもそも特定の集団に帰属することをできることなら避けたい僕はおそらく今も今後も組織的宗教に入信ということはまずあり得ないと思うが、こういった文章をまとめているように神とは何か、仏性はあるか…などと個人の感性としては考えなくもない…ていうか考える。とにかくコトが事だけに如何にカリスマな方とても、言われたら「ハイそうですか。」とはすぐには納得するわけにはいかないのである…鵜呑みにはしないが、無視もしないという一応リベラルな対応を心がける。「一人宗教」というわけだ。余談だが画家とはそういもんだよと師には言われている。つまるところ個人の「魂の枯渇」は重要なのだ。
以下引用するー「そもそも自分が表明しようとしている活動が宗教であると自覚するかしないかは、ほんの紙一重の問題にあることが多い。なぜなら、宗教は本来コミュニケーションの問題に属する活動で、自分が気がついた問題が哲学であるとおもうか、仕事の充実に帰属するとおもうのか、あるいはパートナーとの出会いを求めることとおもうかは、一にコミュニケーターとしての自分の些細なかかわりの変化によっている…」(松岡正剛)。たとえば企業組織と新宗教組織とはどこがちうか考えてみればよい。最終目標として経済的利益を求めるか癒しのシステムの実現を求めるかの違い。そしてその実現の方法は極めて似ているし、もしかしたら結果もそう大きな違いはないのかもしれない。「経済」の話をソコに持ち込むのはそう悪い事でもないと思っている。例えばアートや政治においてもそうだが、この手のテーマにマネージメントの話を公にする事にそもそもアレルギーを持ち過ぎなのだ。しかしその上で宗教が信仰そのものであり続ける事は至難の業であろうな。だからこそ宗教がその哲学を律して今日も明日も元気であろうとしてほしいのだ。当然伝統宗教もまた、というかそれ以上にその問題に大きく直面していることを自覚すべきだろうと思う。僕は人としてはオモシロイお坊さんの幾人かは知っているが未だ宗教者として尊敬できるお坊さんには出会っていない。もちろんそれはこちらに今だ出会う準備が整わぬが故かもだが。いつか門前のアート小僧の戯言にいくばくかの指針を示してくれる仏教者に真に出会いたいものだ。

memo

油や社員食堂(実際にはありません)での会話から…。
例えば小学校でもっと教えてほしいこと。「経済」「法律」「宗教」
いろんなことに妙なアレルギー持たないで
ポジティブに、生き抜くために。
本来はそれぞれそう言うものなんだ。

debut song

以前にもあったがしばらくblog放っとくと(FBはちょくちょくupしてたんだけど)本人死亡説とまではいかないまでも入院説とか一部からもれ聞こえてきたりするんだ。確かにこの夏は過酷ではあったかもしれない…が、しかし、我が住まうところは山麓ですよ。標高1000M近い避暑地ですよ。真夏にココより快適な場所などおそらく北海道あたりを除いてはまずないでしょう。そんなところで体調を崩す理由はとりあえずなく、あるとすれば夏のバカンスとか称してのこのこ下界の観光地などに遠出しては、慣れない暑さにやられ疲れ果てて帰ってくる…てなパターンのみ。というわけで夏場はなるべく所定の標高を維持し、移動も高低差100M程度と決めております、のでまあまあ元気にくらしているというわけです。以上近況報告まで。

さてThe Bon festivalを期にちょっと宗教について考えてみる、2回目。
我が島国は地球規模でみてもとても自然が豊かな国だからそういったモノからスピリチャルな影響を多分に受ける感性が古来から強い。宗教もいつしかそういった土壌のうえに多くのファンタジーを視覚可したきたように思われる。結果、いつしか日本人は浄土や地獄をリアルに思い描きそして気にするようになった。ではなんでそうした現世という生きてる「今」ではない世界=死後の世界を気にし出し、またそれが仏教的イメージとして一元化されるようになったかというとやはり浄土教系の影響が非常に大きいのだろうな(逆にいうと他の宗派には本来そうしたイメージからは遠いところにあったはずだが…実際には江戸期の檀家政策以後現在に至るまでにやはりその一元化が進み過ぎた観がある)。
平安末期、時は末法の世。混乱した社会のなかで人々は貧困・飢餓・疫病などの尋常ではない苦悩にみまわれていたころ、その時代に育った法然を祖師とする系譜からスパースター親鸞がいずれ浄土真宗を興し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし、易行念仏による救済を広めた。阿弥陀仏は西方浄土(人にとっては現世ではない死後の世界)にいる如来格の仏である。この宗派の大きな特徴はネガティヴな表現をすればスタートラインとして、生き抜くにあまりに過酷すぎる今をあきらめるというポイントにある。現世をあきらめて来世(死後の世界)で浄土に導かれ阿弥陀仏に救われよう…という解釈だ。そしてそこへの到達方法として念仏(ナムアミダブツ)という7語称名を唱えるだけという画期的なメソッドを打ち立てた。国家宗教から個人の救いへ。難解から平易へ。民衆の賛同を得られぬわけがない。一切の哲学が排除され、死と引換えではあるものの、まさにある意味命がけの救済という利益がしぼられて非常にわかり易い。
改めて本来の仏教について思いをめぐらせば功罪はあると思う。が、それはともかく必要な時代であったのだろうな。現代、如何に生きにくい世の中といっても「♪僕は食うことに困ったことなどない…し、マシンガンを打ったことなどない…」(by 斎藤和義/僕の見たビートルズはTVの中)だもの。

で、まだつづく…