Jin Nakamura log

debut song

以前にもあったがしばらくblog放っとくと(FBはちょくちょくupしてたんだけど)本人死亡説とまではいかないまでも入院説とか一部からもれ聞こえてきたりするんだ。確かにこの夏は過酷ではあったかもしれない…が、しかし、我が住まうところは山麓ですよ。標高1000M近い避暑地ですよ。真夏にココより快適な場所などおそらく北海道あたりを除いてはまずないでしょう。そんなところで体調を崩す理由はとりあえずなく、あるとすれば夏のバカンスとか称してのこのこ下界の観光地などに遠出しては、慣れない暑さにやられ疲れ果てて帰ってくる…てなパターンのみ。というわけで夏場はなるべく所定の標高を維持し、移動も高低差100M程度と決めております、のでまあまあ元気にくらしているというわけです。以上近況報告まで。

さてThe Bon festivalを期にちょっと宗教について考えてみる、2回目。
我が島国は地球規模でみてもとても自然が豊かな国だからそういったモノからスピリチャルな影響を多分に受ける感性が古来から強い。宗教もいつしかそういった土壌のうえに多くのファンタジーを視覚可したきたように思われる。結果、いつしか日本人は浄土や地獄をリアルに思い描きそして気にするようになった。ではなんでそうした現世という生きてる「今」ではない世界=死後の世界を気にし出し、またそれが仏教的イメージとして一元化されるようになったかというとやはり浄土教系の影響が非常に大きいのだろうな(逆にいうと他の宗派には本来そうしたイメージからは遠いところにあったはずだが…実際には江戸期の檀家政策以後現在に至るまでにやはりその一元化が進み過ぎた観がある)。
平安末期、時は末法の世。混乱した社会のなかで人々は貧困・飢餓・疫病などの尋常ではない苦悩にみまわれていたころ、その時代に育った法然を祖師とする系譜からスパースター親鸞がいずれ浄土真宗を興し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし、易行念仏による救済を広めた。阿弥陀仏は西方浄土(人にとっては現世ではない死後の世界)にいる如来格の仏である。この宗派の大きな特徴はネガティヴな表現をすればスタートラインとして、生き抜くにあまりに過酷すぎる今をあきらめるというポイントにある。現世をあきらめて来世(死後の世界)で浄土に導かれ阿弥陀仏に救われよう…という解釈だ。そしてそこへの到達方法として念仏(ナムアミダブツ)という7語称名を唱えるだけという画期的なメソッドを打ち立てた。国家宗教から個人の救いへ。難解から平易へ。民衆の賛同を得られぬわけがない。一切の哲学が排除され、死と引換えではあるものの、まさにある意味命がけの救済という利益がしぼられて非常にわかり易い。
改めて本来の仏教について思いをめぐらせば功罪はあると思う。が、それはともかく必要な時代であったのだろうな。現代、如何に生きにくい世の中といっても「♪僕は食うことに困ったことなどない…し、マシンガンを打ったことなどない…」(by 斎藤和義/僕の見たビートルズはTVの中)だもの。

で、まだつづく…

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