Our religion
- By jin
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- On 23 8月 | '2013
宗教について考えていたらコンビニで雑誌/一個人「日本の新宗教入門」をみつけた。70年代のオカルトブームが去り、そのあげくのオウム事件以来さらに新興宗教アレルギーが続くご時世でこの企画は受け入れられるのかいな…と思いつつ、個人的にはちょっとタイムリーだったのでパラ見。思えば今に続く伝統宗教もそのほとんどは、日本的霊性が高まった鎌倉期に興った新興宗教だったわけだ。平安末期ほどではないにしろ2年前の大震災直後より多くの日本人は心に傷を負い(あるいは共有し)、そこからなんとか立ち上がらんと生き抜くための支えを求めんとするならば宗教というものの本来の役割を果たすまさにその機会であったかもしれない。そういう意味で800年ほどの時を越えて僕らは同時代を生きているかのような錯覚さえも覚える。
さて、件の「新宗教」であるが自分が教祖になる(冗談ですよ)のならまだしも、そもそも特定の集団に帰属することをできることなら避けたい僕はおそらく今も今後も組織的宗教に入信ということはまずあり得ないと思うが、こういった文章をまとめているように神とは何か、仏性はあるか…などと個人の感性としては考えなくもない…ていうか考える。とにかくコトが事だけに如何にカリスマな方とても、言われたら「ハイそうですか。」とはすぐには納得するわけにはいかないのである…鵜呑みにはしないが、無視もしないという一応リベラルな対応を心がける。「一人宗教」というわけだ。余談だが画家とはそういもんだよと師には言われている。つまるところ個人の「魂の枯渇」は重要なのだ。
以下引用するー「そもそも自分が表明しようとしている活動が宗教であると自覚するかしないかは、ほんの紙一重の問題にあることが多い。なぜなら、宗教は本来コミュニケーションの問題に属する活動で、自分が気がついた問題が哲学であるとおもうか、仕事の充実に帰属するとおもうのか、あるいはパートナーとの出会いを求めることとおもうかは、一にコミュニケーターとしての自分の些細なかかわりの変化によっている…」(松岡正剛)。たとえば企業組織と新宗教組織とはどこがちうか考えてみればよい。最終目標として経済的利益を求めるか癒しのシステムの実現を求めるかの違い。そしてその実現の方法は極めて似ているし、もしかしたら結果もそう大きな違いはないのかもしれない。「経済」の話をソコに持ち込むのはそう悪い事でもないと思っている。例えばアートや政治においてもそうだが、この手のテーマにマネージメントの話を公にする事にそもそもアレルギーを持ち過ぎなのだ。しかしその上で宗教が信仰そのものであり続ける事は至難の業であろうな。だからこそ宗教がその哲学を律して今日も明日も元気であろうとしてほしいのだ。当然伝統宗教もまた、というかそれ以上にその問題に大きく直面していることを自覚すべきだろうと思う。僕は人としてはオモシロイお坊さんの幾人かは知っているが未だ宗教者として尊敬できるお坊さんには出会っていない。もちろんそれはこちらに今だ出会う準備が整わぬが故かもだが。いつか門前のアート小僧の戯言にいくばくかの指針を示してくれる仏教者に真に出会いたいものだ。