たかが○○…、されど○○って感じ好きだよね、この国の人。底に茶溜りがあって、周囲にロクロ目があってお尻に高台。ちょっと歪んで良い感じで貫入など確かに入ってはいますが、なんてことはない素朴なお茶碗ですよ。しかしその直径10cm程度、高さ7〜8cmほどの朝鮮渡来の碗は室町以来の戦国武将を魅了し続けた…らしい。「井戸茶碗」(根津美術館)拝見。
僕は陶芸家ではないけれどなんか一つのメディアとしての器ってのも面白かろうと不純な動機で、たまに土を捏ねて凹んだモノをこしらえては周囲にふざけた文様などコラージュ風に描き巡らして遊んでいるものだから、いわゆる「茶碗」というものに多少の興味はある。周りにも抹茶・煎茶などを嗜む方々もそれなりにいらっしゃるので、折に触れてお茶を立てていただいたりする機会もなくもないのだが、無調法故というかそもそもおぼえる気がないというか都度テキトーな感じで申し訳なく啜っている。まあマナーなんてものはもてなしてくれる相手のことを心から思いはかれる想像力があればフツーにそれが所作となって表現されるのだろうから、そういう気持ちがまだまだ足りないということなのでしょう。
加えて以前僕はそのスジではオーソリティーの茶人でギャラリーオーナーの方から展覧会のオファーをいただいた折、よせばいいのに調子にのって抹茶茶碗(のようなモノ)をいくつか同梱して作品送付したものの、結局それらは検閲にひっかかり会期中ストックヤードから出ることはなく件の茶人からは「ナカムラくんは茶碗なんか作んなくていいんだよ…」と一蹴。一応それ以外のモノが面白いんだからそれで十分…てニュアンスはあったけど、そんな恥もかいている。たしかその折に「ホンモノはこんなんだぜぇ」という雰囲気で彼がその場でささっと立てて出してくれた器も朝鮮の井戸茶碗であったような。
そんな程度なので都合70点ほどのそうそうたる銘品の数々を眺めてみたところで、たしかに良い風情であることは感じるが、こんなものがいっこくらいおウチにあってもよいかなーなどと思うくらいで、そのモノの持つ本当のところの凄みとか価値観はやはり今の僕には不明である。なのでどこをどう見てよいのか分からない僕はしばし館内のソファーに座って鑑賞者を鑑賞してみることとする。
つくづく日本人というのこうした小さきブツが好きだな。あのボリュームにナニが見えるのだろというくらい彼らはその見識というレンズを通してためつすがめつ何モノも逃すまいという勢いで観察している。茶碗ごときで本気でこんな遊びができる民族は他にあるのだろうか。宇宙が小さいということがこんなにも素敵なことなのか…というか物事はすべて相似形であるという本質を日常的に理解しているんじゃないだろうか。
なこともうっすら考えつつ僕はその昔、国一つも動かすような価値をもったとされるブツをただただボーっと眺めている。
…どこか柔らかそうな土の感触。人肌のような色合いの釉。なによりそのカタチ…。
ふと「オッパイみたいだな…」
大井戸はCカップ、小井戸はAAカップ…。あーなんかよくわかんないけど井戸茶碗っていいかも〜。