Jin Nakamura log

無音

冬。部屋の中にいて外の音が消えていると、あ…雪が降っているのだな…とわかります。雪は視覚的にも目前の一切の煩雑をチャラにするよう(実際にはそんなことにはならないのだが)に白く美しく覆い隠してしまうのだけれど、同じ効果は音にもあって、不思議と雑音が途絶えるのです。でもなんとはなしに“雪の音”…積もる音なのか、雪同士が空中で擦れ合う音なのか…だけは聞こえる。それは全く音のない状態よりもはるかに静寂を感じるのです。何れにしても外界のナニカから隔絶された状態になって、僕はこの感じがとっても好きです。

情報はただただ空から白いものが静かに折り重なるようにやってくる…ということだけ。

そして朝目覚めると少し世界が変わっているのです。

131221

snowy day

今年もこの風景がやってきたなー。浅間も中腹までにはもう何度も降りてきてたんだけど里に初めて。

131220

Ido Tea Bowls

たかが○○…、されど○○って感じ好きだよね、この国の人。底に茶溜りがあって、周囲にロクロ目があってお尻に高台。ちょっと歪んで良い感じで貫入など確かに入ってはいますが、なんてことはない素朴なお茶碗ですよ。しかしその直径10cm程度、高さ7〜8cmほどの朝鮮渡来の碗は室町以来の戦国武将を魅了し続けた…らしい。「井戸茶碗」(根津美術館)拝見。

僕は陶芸家ではないけれどなんか一つのメディアとしての器ってのも面白かろうと不純な動機で、たまに土を捏ねて凹んだモノをこしらえては周囲にふざけた文様などコラージュ風に描き巡らして遊んでいるものだから、いわゆる「茶碗」というものに多少の興味はある。周りにも抹茶・煎茶などを嗜む方々もそれなりにいらっしゃるので、折に触れてお茶を立てていただいたりする機会もなくもないのだが、無調法故というかそもそもおぼえる気がないというか都度テキトーな感じで申し訳なく啜っている。まあマナーなんてものはもてなしてくれる相手のことを心から思いはかれる想像力があればフツーにそれが所作となって表現されるのだろうから、そういう気持ちがまだまだ足りないということなのでしょう。

加えて以前僕はそのスジではオーソリティーの茶人でギャラリーオーナーの方から展覧会のオファーをいただいた折、よせばいいのに調子にのって抹茶茶碗(のようなモノ)をいくつか同梱して作品送付したものの、結局それらは検閲にひっかかり会期中ストックヤードから出ることはなく件の茶人からは「ナカムラくんは茶碗なんか作んなくていいんだよ…」と一蹴。一応それ以外のモノが面白いんだからそれで十分…てニュアンスはあったけど、そんな恥もかいている。たしかその折に「ホンモノはこんなんだぜぇ」という雰囲気で彼がその場でささっと立てて出してくれた器も朝鮮の井戸茶碗であったような。

そんな程度なので都合70点ほどのそうそうたる銘品の数々を眺めてみたところで、たしかに良い風情であることは感じるが、こんなものがいっこくらいおウチにあってもよいかなーなどと思うくらいで、そのモノの持つ本当のところの凄みとか価値観はやはり今の僕には不明である。なのでどこをどう見てよいのか分からない僕はしばし館内のソファーに座って鑑賞者を鑑賞してみることとする。

つくづく日本人というのこうした小さきブツが好きだな。あのボリュームにナニが見えるのだろというくらい彼らはその見識というレンズを通してためつすがめつ何モノも逃すまいという勢いで観察している。茶碗ごときで本気でこんな遊びができる民族は他にあるのだろうか。宇宙が小さいということがこんなにも素敵なことなのか…というか物事はすべて相似形であるという本質を日常的に理解しているんじゃないだろうか。

なこともうっすら考えつつ僕はその昔、国一つも動かすような価値をもったとされるブツをただただボーっと眺めている。

…どこか柔らかそうな土の感触。人肌のような色合いの釉。なによりそのカタチ…。

ふと「オッパイみたいだな…」

大井戸はCカップ、小井戸はAAカップ…。あーなんかよくわかんないけど井戸茶碗っていいかも〜。

131216

long time no see…

冬になってヒキコモ宣言をしたからといって、なにもblogまでお休みすることもなかったんだが、依頼を受けている仕事を一つずつこなしていたら自分と向き合うどころではなく全く余裕のなかったこの一ヶ月。ま、多少は必要とされてんのかどうか有り難いこってス、ホント(でもまだ宿題おわってないのある〜)。そんなこんなでも毎日散歩はしたり本読んだり小丸(同居猫)をかまってみたり…と、たいした生産性のない時間も大切にはしている。…そうだ思い出した余裕欠如の一因…メインで使ってたMacG5が壊れたんだった。ギリギリのスケジュールのこのタイミングで?ってことですよ。こういうことがあるといろいろ考えちゃうな。なにかあった時に自分でなんとかならんようなモノ使ってることに問題ありなんじゃないかと。原発もそうでしょ(急に話しデカクなっちゃうけどさ)。というわけで今後は例えば“筆”一本で生きぬけるような自分をさらに鍛えたいと思います(理想)!

内核

晩秋ともなり件の油や営業日程も対外的にはすべて終了したことだし、さていよいよ最適の季節となり先日FBにて春までのヒキコモ宣言をしたばかりだが、かといって毎日部屋に閉じこもり…という意味ではない。自分と自分の生み出すモノにしっかりと向き合ってみようというくらいのこと。だから朝日も浴びるし夕日も眺める。散歩もするし、薪も割る。そして絵も描く。会うべき人には会うだろうし、訪ないがあればそれはそれで歓迎もする。それなら普段とさほど変わらぬ気がしないでもないが、やはりどこかちがうのであるきっと。何れにしても外界のナニカの刺激を絶って内界に深く沈んでみようということなんだろう。そしてそれは多分さびしくないし少しわくわくする。たとえば海の底や地球の内殻が如何に未知で興味深いものか。そしてカラダがあってできることはまずやる。いのちを楽しめばいいのだ。もしかしたらだがカラダがじゃまなこともあるやもしれぬ。それはそれでよし。すこし以前にハマってた明恵師のように二股の木に半座して瞑想中、股ぐらに栗鼠が通るをゆるすなどの境地に至れればよいのだけれど。環境はたぶんぴったりなんだけどな。やはり山麓の初冬の気配はよい。

神楽月の宴

「神楽月の宴」神林學 ナカムラジン 櫻井三雪

会期2013年11月15日(金)→ 22日(金) 開廊時間11:00→18:00

風来 〒673-0881 兵庫県明石市天文町1-7-9 tel・fax 078-914-5266  定休日:日曜・月曜・祝日

というわけで明日から関西です。

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回を増すごとに盛り上がりを見せている中之条ビエンナーレ。今回もまるで「るるぶ」片手に有名観光地をめぐるような女子旅風景があちこちで見られ、その成功実態を目の当たりにしてきた。もちろん彼女たちの手にあるのは「るるぶ」ではなく観覧パスを購入するとセットでついてくるA5サイズほどの公式ガイドブック、散策するのは祇園界隈の歴史情緒ある路地などではなく、典型的なシャッター通りのうら寂しい商店街や「この先ナニかあんのかい!」ってツッコミたくなるような不安な山道…等々。そして都会からやってくる、ど田舎街にはおよそ似つかわしくない派手なツアーバスからは若い男女が古びた廃校のグランドに次々に吐き出されいく…。

「最近の街起こしの成功事例のテーマはB級グルメと現代アートだって聞いたんだけどホント?」

信越線開通以来急激に没落した旧中山道追分地区の再生を切に願う、我が油やプロジェクトリジチョーのS氏からかような質問をされたことがある。ならばその実態を見に行きましょうか、車で2時間弱だし。ということで今回の温泉付き視察小旅行とあいなったわけだ。リジチョーはもともと金融業界のお勤め人で僕らのようなヤクザな稼業との接点があまりなかったわけだが、なまじ僕らの口車に乗って油や再生プロジェクトに「文化磁場」などという全く数字では計れないようなテーマをくっつけられたおかげで、幸か不幸か最近では帳場仕事の合間に回廊内にはびこるギャラリーに迷い込み、壁に掲げられた不可解な作品の前でたたずむ姿をちょくちょく見かけるようになった気がする。そして僕らのようにアートにすれていないそんな初々しい視点のフィルターをもって、いったいどのような反応を示すの興味深々で、かの成功例を検証してみたく是非にとご同行願った次第だ。

「アートは感じればいいんだよ」てなこと言われてもねぇ…。そんな言いようも少々上から目線で傲慢かもな。もちろん芸事だから鑑賞者も研鑽を積んで見えてくる世界もある、が、それは表現する側にも言えることで、いやプロであるならば当たり前だがそちらの方が重要でちゃんとホンモノであるかどうかが問われるわけだ。「アートは感じればいいんだよ」と本気で言うのなら初めてそういうモノを目の当たりにする人のココロのホンのはしっこでも揺さぶるモノを生み出すのがアーティストでしょ。芸の道はキビシイ。

というわけで僕は今回とっても良いフィルターを傍らにおいて、B級グルメと一緒にされてしまった現代アートなるものを楽しく鑑賞することになる。

で、やっぱりつづく…

reviewーNAKANOJO BIENNALE 2013

10/14ですでに終了している中之条ビエンナーレ、まだちゃんとしたレビューをあげてなかったのでご報告。前回に引き続き今回も油やスタッフとともに視察名目で湯治場宴会を企画、なので今回は四万温泉前泊だい。

それはさておきハイ、さてこの中にアートはいくつ隠れているでしょう…って前回もそんなことしたような…。

答えはゼロ。そういうもので満ちあふれた現場にいくと、ついついなんでもかんでもアートっぽく見えてしまうもんです。事実中之条の人々の幾ばくかはぜったい張り合ってるフシがある。あんなことなら自分でもできそうだと…。以下の写真は比較的無欲に取り組んだ(?)であろうブツであるがやはりそういものの方が面白みはある。ただ写真上中央「不純異種族間交遊之圖」は今もって作意的なものかどうかは不明也。また古い看板モノはその歴史的付加価値が郷愁を誘うが「オリンピックパン」はおそらくIOCの著作権許諾は得てないと思われ、人ごとながら余計なお世話的心配などするものだが、まあ東京オリンピック招致も決まってしまったことだし、何よりあまりにも歴史を感ずるたたずまいは、もうすでにこっちのもんだよね…って説得力でココが本家というほどの風情なので、ま、いっか。

といわけで、ここまで全くレビューになってないので、また少しだけ続く。

131027

アメリカで仏教を学ぶ

たぶんステキな本に出会ってる気がする。

ずっと不思議に思ってたんだお経…なぜアレがお葬式の時に読まれるのか。あんなものに死者を成仏させる呪文なんか入ってないのにと。ま、そう言い切ってしまっては身も蓋もないないが、たぶんそんな気がするのだ。例えば有名な般若心経なんかはアレは壮大な哲学書でしょきっと…ってあやふやなんだけど、じつはソコ、そのあやふやなとこが大問題だと思ってた。

仏教はもともとインドで生まれたものだから初期に作られたお経はインド語(パーリー語っていうのかな)で記述書体は梵字とかでしょ。それが中国に伝わって中国語訳される。記述書体は漢字となるわけだ。そしてさらにそれが日本に伝わるのだが残念なことにそこでは和語に変換されないまま現在に至ってる。いくら朗々とした声でも漢文をただ音読みされてもねぇ…漢字のニュアンスは一部なんとなくわからんでもないが、やっぱあやふやですよ実際。だから腑に落ちない。

有り難そうな雰囲気は醸し出すがそれはズルイと思うのだ。僕は日本の仏教者の一番の手抜かりはお経を和訳しなかったことと思っている。神道の祝詞なんかちゃんと日本語でしょ。古語も含まれてるから多少むつかしいけどせめてあのくらいにしてもらわんと。

などと悶々と考えてたら出会っちゃった「アメリカで仏教を学ぶ」。この国で出会えなかった問いに海の向こうから答えが届く、得てしてそういものか。

僕は中ボーの頃にただ仏像がカッコえ〜って始まった門前の小僧みたいなもんだから感覚的に本来の仏教はすてきなものだと思ってるが、やはりお経は難しい。十代の頃に最初に般若心経の本を買って以来ちゃんと覚えたのはつい最近。

難しいことを難しく言うのはあまり能力のある人のすることではないでしょ。英語はいい意味でボキャブラリーが少ないからシンプルにストレートに伝わってくる。彼らが「KANJIZAIBOSATSU…」とやらかしてなかったことに拍手を送りたい。だけど我が国の導師たちは「観自在菩薩…」と始めてしまう。意味がわかればこの宗教が持ってるポテンシャルがもう少し伝わる気がするのに。ま、小僧として言いたいことは山ほどあるが今日のところはこの辺で。

2週間ほど放っておいた指にささっていた棘を抜いた。もちろんわざとではない、何度か取ろうとしたが抜けなかったのだ。小さなモノであってもカラダの中に異物が入っている、しかも日常よく見えてしまうような場所に…という状態はあまり気持ちのよいものではないが、あの手この手を尽くしても取れないのだから仕方なし、とあきらめてこの件については「なかったこと」にして一旦忘れた。幸いカラダは痛みには徐々に慣れるし、そんなモノでのっぴきならない事態になるとも思えないから放っておいた。が、その後も人差し指の第一関節あたりにとどまる小さな黒い点はときたまその存在をささやかにアピールし続ける。しかしそれはすでにかさぶたのようなもので、もしかしたらすでに取れてるかもとも思おうとしたが、ナニかがそこに触れればささやかな痛みは感じるし、何よりその周辺が赤く膨らんできて確実に異物がソコにあることを主張し始めたので、結局「なかったこと」を撤回し「ありつづけている」ことを素直に認め、ある風呂上がりの晩、僕はふやけた指に剣先のついたようなピンセットを強引にねじ込んでブツを引きずり出した。2mmほどの小さな棘が取れた。

2週間共存した小さなブツをテッシュの上においてしばし感慨深く眺めつつ、ココロにもこういうのってあるかもなーなんてふと…さ…。