Jin Nakamura log

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花腐し…

花びらを拾って歩いた、まるで少女のように。いや、そもそも少女は花びらを拾って集めたりするだろうか。これはオッサンの純情がさせる全く無意味な行為ではないか。

そうやって集めたのはコブシの花片。名ばかりの春の間に薄霜がなんどか降りたが、くりぃみぃな白を薄汚れた茶色のシミに染めながらもなんとか枝の先にしがみつき卯月の終わりにとうとう落ちた。

目の前に落ちていたわりと綺麗な1枚だけ拾うつもりだったのだが、横に目をやるとあちこちに散乱する花びらがなんだか急にいとおしくなって昨年の枯れ葉の中を歩き回り何枚も集めた。こうやって下だけを見ながら奥へ奥へと進み人は山に迷っていくのだろう…が、コブシの木は我が家の庭先にあるので僕はどこへも迷わない。

最初は出来るだけ状態のよいモノだけを集めるつもりだったが、そのうち薄茶に汚れたのもなんとなく美しく思いはじめて「このシミはよいかな…」などといろいろなものを拾い集めてみた。

さて自分なりの観点で美しいと思って集めてはみたが、これらの花びらはこの後どのようになるのだろう。もっとビビットな色であればやがて色が抜け落ちて脱色しそうだが、コブシの花はもともとそれほど主張の強い色ではない。ただ早春の山腹でまだ周りが枯れ木ばかりの中、いち早く大柄な白い花弁をつけるから、その時期には結構目立つ花木ではあるが。

白はしろのままであろうか。白が脱色するイメージはないが、茶色に変色していくのだろうか。考えてみたら花びらの行く末など考えてみたこともないので、そんなたぶん当たり前すぎるような結末を実は何も知らないことに気づいたりする。

「卯の花腐たし」という季語があるが、「腐たす」のはなにも卯の花だけではない。すべての美しい花は皆その役目を終えれば落花し腐る。

このウッキウキの季節になんでそんなモノに引っかかったのか我ながら不思議であるが、とりあえず写真に残し、この後は科学としたい。

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10年間地元の方たちと続けてきた「境内アート」。諸事情あり昨年をもって実行委員会を卒業させていただいたが、11年目を迎える今年は境内企画作家ということで参加となった。いろいろな意味で過渡期を迎えてるだろう本企画、志をARTでと出来るかぎりのことを考え、やれる限りのことを実現してきたつもりだが都度自らの限界も感じまた、同時に毎回参加してくれた多くの作家のみなさんとの出会いにも感謝の10年間であったとも思う。

こうした多くのフェスは大概企画当初は参加人数も少なく、当然認知度も低いから集客もままならず始まるものだが、焦らず工夫を怠らず我慢をして続けて行くかぎり必ず成功の糸口は見えてくるものだと思う。事実当初わずか20組ほどの作家に声をかけ、始めた当フェスも近年では150組ほどの出展者を数えるほどに成長した。数字の上では確実に成功に近づいているとは思う。内容的にもART+CRAFT+一箱古本市+ステージパフォーマンス+骨董市などが歴史的禅寺空間と信州の遅い春を彩る桜の森で一同に開かれる2日間はなかなか見応えのある企画といえるだろう。

ただ境内アートに限ったことではないが、こうしたひとつの成功の道筋に沿って進む企画を少し俯瞰して眺めて(特に今年はいわゆる企画サイドではないので)みると案外細々と地味〜にやっていた立ち上げ当初の頃の雰囲気の中にこそ、なにか本当のエッセンスがあったような感じがしないでもない。数字や規模で計れない、もちろん郷愁とかではない忘れてはならない何か。毎回毎年楽しいのだが、そんなお祭り騒ぎの中で少しづつ遠ざかっていった何か。

それを思い出す更なる10年でも良し、行けるとこまで行ってしまえという勢いの10年でもまた良し。何れにしてもそんな混沌を許容する寺空間は今後もそこにあり続ける。失敗はしてもいいけど後悔はしない…そんでいいんじゃないのかね。

で、結局 I’m looking fowerd to KEIDAI-ART 2015 !

*写真ほんの一部だけど自分の分も含めてのせときまっす。

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Tokyo days

標高1000M在住のカラダが寒冷地仕様になってるからな…暑かった〜海抜2.2M。

もう4期もやったしそろそろ卒業かな…って思ってた劇団風の子国際児童演劇研究所の講師、今年もやれとのことで案外どこか優柔不断な部分も持ち合わせる僕は「う、うん」とくぐもった返答をしてしまい、も一回だけ関わらせていただくことになった。まあ「境内アート」といいなんでもかんでも一気に身辺整理をつけすぎるとちとヤバイかもしんないから、なんか一つくらいズルズル引きずるものもあってもいいのかもな。

というわけで29期生入所式出席のため演劇の聖地下北沢へ。

一年半の授業の内、僕が関わるのはほんの一瞬にすぎないのだが、なんかこれ毎回ものすごくエネルギー使うのだ。おそらく受け手にそういうエネルギーがあるからなんだろうな。ちょっとジジくさくなるからそういことはあまり言いたくないんだが、やはり“若い”というのは存在するだけで暴力的で変質的で素敵すぎる(うまく言えんけど)。で、またそうでなくてはいかんよね。で、で、またそうい場所だけに不思議な子たちが全国から集まるのです。“子”といっても概ね20才前後、時に3〜40代、稀に僕より年上(一度だけ)。

そんなうじゃうじゃな集団のなかで僕の役割は美術の授業。最近はとにかくマイブームにただただ付き合ってもらってる。そんときに僕がマジハマってることを一緒にやる。発信する側がまず楽しくないと受け手もきっと楽しくないだろうとの思い込み。

例えば現在のマイブームは「仏教」なので、もし明日授業があればおそらく「今日は仏像を彫ります!」てなことにもなりかねない。それもよいような気もするが…それじゃダメでしょって気もするので、まあ秋口くらいまでじっくり考えます。それはそれでやっぱ楽しいかな。せっかくなので油やに合宿制作なんてどうかしら。とにかくみなさん一年半大変なこともあるかもだけどやりきってもらいたいものです。

KEIDAI-Art 2014

境内アートは今年で11年目を迎える。この禅寺アートを立ち上げから10年間地元小布施の方たちといろいろな思いで続けてきたが、昨年その10周年を機に実行委員会を卒業させていただいた。理由はいくつかあるが当初から自分のなかでそのくらいの目安を決めていたのかもしれない。住職には「とにかく3年でやめるとかはなしにしましょう」と、まずはどんなに大変でも継続することを条件にこの企画に関わらせていただいたが、結局基本的にポジティブな小布施人のおかげで結構楽しい10年であったと思う。その間に規模もかなり大きくなり集客も増え、改めて地元に定着した感がある。ただ自分の中で当初描いたビジョンにどれだけ近づけたかと考えると、やはり自らの限界も感じないではない。

長野では工芸系のモノツクリのフェスでは成功をおさめている企画はいくつかあるのだがアート系分野に正面から取り組んだ参加募集型の企画は自分の知るかぎりではなかったので「志をartに…」と、それで境内アート。楽しく使えるクラフトもあり、なんかつかえないモノの凄みをみせるアートもあり、そんな欲張った企画であったのです。禅寺の境内というエリアにチャンプルーな混沌を表現できたらと。

ま、そんな感じでとにかく10年はやったし、あとは若いもんにまかせて…などとジジィみたいなこと言って軽井沢油や方面にひきこもろうと思ってたら、さすが小布施人、「ジンさん今年は境内企画作家でお願いしますよ」と。なるほどその手があったか…。

境内企画作家とはそもそも僕が実行委員会にはかって作ってもらった企画なのだ。毎年主催者が2組のアート系作家を招聘して境内を盛り上げてもらおうというもの。まあ招聘というと聞こえはいいが、公的な補助金などを一切得ず(小布施町の協力はあります!)みなさんの労力主体で成り立っている企画なので、作家に対してもささやかな制作補助費が支給されるのと、夜のメインイベント「禅寺大懇親会」の参加費無料!というメリットがあるくらいで、それとと引き換えに、声をかけたナラムラからは「たのむよ、ビシッと見栄えのするやつね」などと理不尽な要求を突きつけられる、あまり割に会わない「招聘」なのだ。それでも歴代の企画作家さん、やっぱモノツクリの性ってんでしょうかね、ホント頑張ってくださいまして、この場を借りて改めて感謝ですナー。

で、このたび。この自分でまいた種がまさに自分に帰ってきてしまった…というわけですよ。どうしましょ。

本堂に9人のbodhisattva、並べようと思っとりやす。

これでゆるしてもらえるかな…。

ゆるしてもらえてももらえなくても禅寺大懇親会は楽しもーっと!

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雨ではない、かといって霧というほどでもない。空気中にほんの微細な水滴がただよってる。晴れていれば間近に見える浅間山も厚い雲に覆われ、まったくその姿を隠している。この雲は夜半には確実に雨になるらしい。

一応習慣にしてる(つもり)の散歩は夕景を見ながらと決めている。理由はいくつかある。1.朝はそんなに得意ではない。2.昼間は仕事をする。3.太陽高度が下がり、夕方の厚い大気の層をすり抜けて届くオレンジ色の波動が好き…概ねそんなところ。なので雨の日はもちろん太陽が見えない曇りの日はいまいち外に出る気にならない。が、そうそう引きこもってもいられないので本格的な雨になる前に思い切って出かけることにした。

普段よりは湿気の多い日ではあるが、そうは言っても花粉のシーズンであるからマスク必装で。しかしそのせいで歩き始めるとすぐに自分の呼気で眼鏡が曇る。周囲の湿り気と相まってまさに深い霧の中を進むようだ。レタス畑の農道はほとんど一般車両は通らないので多少視界が悪くてもそれほど問題はない。

いつもというわけではないが音楽を聴きながら歩くこともある。Keith Jarrettのケルンコンサートは空の風景が美しい時に最近よく聴いている。10代終盤に出会ったまさに名盤であるが実は長いこと聴いてはおらず、その存在を忘れかけてさえいたのだが、つい2年ほど前に知人に連れてってもらった京都のカフェでたまたま流れていて、まさに30年ぶりの邂逅を果たし、忘れモノを取り戻した気分でその後飽きない程度によく聴いているという次第。

ジャズ界ではあまりにも有名すぎる名盤なので知ってる方も多いと思うが、もし未だとうい方はには是非聴いてもらいたいものだ。表現者にとって一生に一度こんな神懸かり的な仕事ができたらもう思い残すことないんじゃないかな…(でもそれはそれでタイヘンか)。とにかく夕日に染まったきれいな空と雲をアホみたいに眺めてそのメロディを聴いていたら涙が出そうになる。でもそうしているとあまりにも簡単にトランス状態になって現実世界から離れて行きそうになるのでほどほどに…とは思ってるけど。

歩くということにはあまり意味がないような気がする。もちろん健康のためと思ってはいるが、歩き始めるとそれはただただ歩いているだけでなんか本当に意味の無い行為に思えてくる。無為とはこういことかとも思う。なんか動きながら瞑想しているような…とは言っても僕はきちんと瞑想とかの指導も受けたことも無いし当然経験もないので瞑想のなんたるかを知らないのだけれど、歩きながら普段考えないような思いに至ったりして面白い。カラダが歩くという行為でちゃんと活動しているせいか不思議とあまりネガティブなことは考えないような気もする。

今日は、これもやはり10代の頃にハマっていた劇団の演出家の言葉を思い出していた。「地球よ止まれ、僕は話したいんだ!」これは彼の本のタイトルだったかな。残念ながら本の内容は全く覚えていない。とにかく暑苦しいほどに汗臭くエネルギッシュな芝居をする劇団だったので、内容もかなり暑苦しかったんだと思う。

僕も若かったし傾向としてすぐにいろんな物事に感化されやすかったから、こんなコピーが心に残っているのだろうと思うけど、今に至ってはそんな天変地異を起こしてまで誰かに伝えたいようなのっぴきならない話題など持ち合わせるわけもなく、なぜ歩行瞑想中にこんな言葉がふと浮かんだのかが全く不明である。    …つづく