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いのち

現在トップページ画像の「命字系」は、もともと2年間続いた信濃毎日新聞社掲載の月一回のコラム「やまと言葉の倫理学」(文:竹内整一/鎌倉女子大教授)のための挿画として最終回分に制作したもの。毎回タイトルが先行して竹内先生より送られてくるのだが、今回も3/26掲載分のテーマとして3/10に僕の元にメールにて「いのち」という言葉が送られてきた。震災の前日である。送られた先生はもとより編集担当者そして僕も偶然とはいえ驚きとともに複雑な思いであったことは間違いない。結局最終回のタイトルは「つねなし」(=無常)に変更されたが、先行して制作が完了していた「命字系」はタイトルが替わっても内容にそぐうものとの判断でそのまま掲載されることとなった。

今回、新聞掲載時にはもともと入れてなかったメッセージコピーをレイアウトしてA2ポスターとして制作することにしました。200枚に作家サインとエディションNo.を入れて価格500円以上ということで販売し、収益金の全てを社会福祉協議会等の団体を通して今回の災害復興支援の義援金として寄付します。ポスターは「菜の花  暮らしの道具店」4/9〜17(小田原)、「境内アート」4/16・17(小布施)、FLAT FILE(長野)、元麻布ギャラリー(佐久)などで購入可能です。ご協力いただければ幸いです。*タイトル「命字系」の“系”には“つながること”という意味があります。この地球上に生きるひとつながりの命たちをイメージして制作しました。

CABOT COVE meeting

軽井沢追分のカフェ・CABOT COVEにてTOPOS会議。参加者:たかはしびわ丸山玄太町田哲也と私。+町田氏はご息女JK16才ご同伴。如何に可愛らしいとはいえジョシコーセーが一つ屋根の下に存在するという緊張感をヤツは日常としているわけでなかなか大したものである。男系小僧三人を養育中オヤジには全く想像のつかない領域なり。

それはさておき進行・進捗状況など一通り町田氏より説明を受けまた全体像に一歩近づく。もとよりその件については事前に参加作家同士の連絡用サイトで逐次送られてきてはいるのだが、その辺をつっこまれつつもやはり本人の声の抑揚や、けだるそうな表情などを垣間みながら受け取る言葉が腑に落ちる。

彼が提案するtopos packageのプランは興味深い。一人の作家が制作(あるいはデザイン)したプレゼンテーション用フォーマット(平面作家であれば、極めてオリジナリティに富んだ額装のようなモノ)に従い他の参加作家も中身のソフトのみ入れ替えてこの企画に参加するという趣向。フォーマット制作は順次持ち回りとなるので、提案の仕方によっては平面作家なのに立体作品を強要される場合もありで、自分の潜在能力を試す意味でも興味深い。自己完結型作家のための能力開発教材(workshop for artist)的意味合いもあるかもね。…という一連がこのプロジェクト内で完結していてもやはり仕方がないので、しかる後 “あそびじゃないよ…” っていう大人な取り組みになるかどうかがためされることになるだろう。ヤツにしても自分にしても養育者の一部が社会人となるような年齢ともなるが、作家としての更なる自立の模索はまだまだ続きそうだ。

Zen

「禅」はあたりまえだが本来怠け者体質の我が身には荷が重く、夏場、背中のバックプリントにカリグラフィーにて“禅”と描かれたTシャツなど身にまとい悦に入っているくらいがちょうど良い。ただ難解で魅力的な思想であることは間違いなくSAMURAIや茶人ではなくとも欧米人などが科学や智の大系ではおよそ説明のつかないこの東洋の不可思議なテーマに食い付くのは全く理解できる。故にこの件については中途半端な知識ほどその障害になることはまちがいなさそうだ…ということは少しわかったので以後言葉はできるだけ感じながら読み進めることとする。なにより途中々に出現する高名な祖師たちの漢文や候文等は内容の理解の上では大きな障害なのだが、「漢字」はただながめているとなんとなく意味が伝わってくるような気がしないでもない。ま、そんな気がするだけかもだが…。

Buddhism-2

世界中であまねく信仰されている他の宗教と大きく異なる点の一つは仏陀が普通の人間だったということだろか。彼は何の予言もしていないし、海を分けて道を作ることもしていない。王家の息子ではあったがちゃんと人間のお父さんとお母さんの普通の行為の末生まれている。もちろん神ではないのでハデな奇跡は一切起こしていないのだ(弟子の中には超能力者はいたようだが)。ただただ普通に悩んで闇雲に修行をして、それでもだめだめで、やり方変えようと思ってふとチカラが抜けたところ菩提樹の下で悟りを開いたわけでしょ(見てきたわけじゃないけど…)。しかも開いた悟りは「一切皆苦」。この世は苦しい…じゃ、どうすんのってわけで、その後彼の弟子たちが仏陀の口伝を途方もない年月を重ねて整理・解釈を連綿と続けた結果が現代の多様なBuddhismにつながる。偶像作るな、葬式すんな…。僕らが今のお寺さんから受けるイメージとは大きくかけ離れた原石の姿も興味深いが、その後の人たちが様々な想いで思考した大系もまたすばらしいと思う。要は神の言葉ではなくとことん人が創ったということである。その辺が魅力かな。それはそうと、後の人たちが師の教えを無視して偶像崇拝に手を染めてくれちゃってよかったかも…。それだけ仏陀の面影を伝えたかったのかね。このあたりのエピソードも人間ぽい。(まだ続く…かも)

Buddhism

いい機会だからこれからしばらくBuddhismにハマることにする。とは言ってもこの件については波があり10代の頃に「ちょっとカッコよさげ…」という理由で密教と空海に興味を持った第1次マイブーム以来、概ね第4次くらいってとこかな。入口はなんといっても仏教美術。教義云々よりもそのビジュアル世界にまず引き込まれるわけだが、もともと言ってもわからぬ凡夫(おバカさんてこと)にその世界観を感覚的に納得させる有効な手段としてあったわけであろうから別に動機としてはけして不純ではないと心得る。

たまたま今回の震災以前から哲学者・梅原猛「日本仏教をゆく」を読み進めていたが、その中で聖徳太子以来先人の宗教者たちはそもそも学んだ先の中国や朝鮮諸国と比べても突出して多くの宗派分派を創り多様な方法論で「どう生きるか」を模索し続けてきたかを知るに至る。一定の伝統を有するものだけでも十三宗五十六派というから驚きだ(キリスト教もそのくらいあるのかな? カトリックとプロテスタントくらいしか知らないが…)。ただ残念なことにそのほとんどが江戸時代の檀家制度と明治の廃仏毀釈で壊滅的なダメージを受け、本来のポジティブシンキングな機能をほとんど失いかけている感は否めない。もちろん祖先を供養する気持ちは大切であるし、そこを否定する気もないが今回のような現代の末法の如き人智では如何ともしがたい事態に直面した時、やはり今を生きる人々の指針となってほしいものだ。星座占いでも高価な壷でもなく、そんなことで右往左往するのではなくてさ。さて今日から名著とされている英文対訳(もちろん日本語だけ読む)『禅と日本文化』鈴木大拙に挑戦。近代の宗教家の本は初めて。(to be continued.)

首都へ

境内アート選抜展(神楽坂)オープニングパーティー出席のため上京。軽井沢・群馬方面作家乗り合わせで車で移動という手段も当初考えたがガソリンが手に入りにくいこともあり各自移動可能な人は新幹線でということになる。予想に反して上り線乗車率はほぼ100%な感じで人は結構動いているという印象。しかもリュックやスーツケースなど大きな荷物を携える人が多く、直接的に被災地へということでないにしろ、そこココで不足気味の物資を届けようとする姿にも見てとれた。震災以来10日ぶりの東京駅は当日が曇天ということを差し引いてもかなり薄暗い印象。下りのエスカレーターは全て止まっており地下通路も概ね30%ほど照明はダウンさせているようだ。常時まぶしいほどの明るさに慣れてしまっていると少し暗いというだけでなんとなく一瞬不安感を覚えるが、そういうものだと思ってしまえば格別の不便を感じることもない。ピクトサイン等はもともと識別しやすくできているし、階段を使って歩くことは体にもいいわけで、通常これでいいんじゃないかな。そう考えるとやはり今まで消費を越えた浪費をしてきたことは否めない。節電しましょ。そして不安な気持ちはわかるけど買いだめはやめましょうね。

さて件のオープニングパーティー。こちらも予想以上に大盛況でございました。東京近郊の参加作家はもとより神奈川・長野方面からも多数参加。こんな時期なのに皆さんありがとね。そしてなにより境内アート実行委員会事務局代表として地元小布施町のbunya・木下氏も駆けつけ「境内アート開催宣言」を高らかに。一部開催を心配する声もあっただけにその一声に一同喜びもひとしおです。みなさん4月桜舞う頃、信州・小布施にて元気にお会いしましょう!

神楽坂

一時期開催が危ぶまれた「境内アート選抜展」だが、こういう時だからこそやりましょう!と言うことで予定通り本日から神楽坂・えすぱすミラボオで開催されております。19日も都内近郊の出展作家の皆さんが多数お集りいただき搬入・展示を手伝っていただいとのことで有り難いかぎり。明日21日には時間を1時間繰り上げて4:00pmよりオープニングパーティーも開催されます。お時間のある方、このところのBad newsで気分が晴れない方、気晴らしに、そしてお気軽にご参加くださいね。

Anpanman

話題のアンパンマンマーチは僕もたまたま車のラジオで聴いていた。平時ならどうという事もない唄なのかもしれないが、この超ポジティブソングに暗い夜道を走りながら不覚にも目を潤ませてしまった(単に加齢にともなう涙腺の弱さを露呈したにすぎないかもだが…)。ネガティブな話題は一切記すまいと始めた当logだが、さすがに限界あるでしょ…っていう日々が続く。仏教でいうところの「無常」とはこういうことかとも思う。「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか こたえられない なんて そんなのは いやだ!」こどもにわかりやすそうな歌詞にも聞こえるが確かに多分に哲学的にもとれる。3才のこどもでもわかるが80才の老人でも実行する事は難しい…。それが釈迦の悟りだという。まだまだ為すべき事はたくさんありそうだし、また努力も足りないようだ。少しづつでも前にすすもう。とりあえずアンパンマンマーチはiTunes Storeからダウンロード。

top page

トップページ画像を一時期差し替えることにした。タイトルは「命字系」とする。

1960年代に一世を風靡したフォークグループ・フォーククルセイダーズが2002年に再結成された際にリリースしたアルバム「戦争と平和」の1曲目に「芸術家,科学者,そして宗教家」が収録されている。政治の無力さを認識し、まさに今こそ芸術・科学・宗教のチカラでこの地球をなんとかしていこう!…といういかにも彼ららしいメッセージソング。芸術の力については己という尺度で振り返れば甚だ心もとないが、やはり今だからこそ科学と宗教の潜在力を信じたい。人が招いた禍はやはり人がその責任をとって乗り越えていかなければならないのだろうし、それでも越えられない自然、あるいは超自然的な試練には己の能力を過信せず奢らず謙虚に自分のココロが寄り添える何かを信じる気持ちも必要だろう。そうした何かにココロのチャンネルが合ったときに奇跡は起こるのかもしれないし、またそんなに都合良く奇跡は起こらないにしても、たぶん気持ちは落ちくつ。そしたら次に何を為せば良いかのヒントくらいは見つかるかもしれない。必死に考えて心から信じてみたい。

その後、これから。

当日はたまたま打ち合せのため板東氏のFURONEKO ART HOUSEに向かう途中であった。上野駅到着寸前の山手線の中で異様な揺れを感じながらホームに滑り込み、ドアが開き降りた瞬間にそれが人為的なものとは全く無関係な恐ろしい力によるものだと実感した。以後都内の電車は数時間にわたり機能を失い、途方もない人数の人々が自分がいる現場からの徒歩以外の移動手段を失うことになる。幸い自分は目的地までの道程は心得ていたし、もちろん情報がなかったので事の深刻さも理解しないまま上野公園から芸大前、谷中界隈を抜けて板東宅へ向かったわけだが、街角の公園で身を寄せ合う不安げな表情の人々、店の中がぐちゃぐちゃになって呆然と座り込む店主、崩れた寺町の土壁…など歩き進むにつれて先ほどの揺れが残した爪痕が少しづつ肌で感じられ、いやな予感がつのっていった。結局この日、ギャラリー猫町のスタッフ+展示会期中の作家の方々らとともにそれぞれ家族知人の情報等を気にかけながら、また断続的な余震が続く中、不安な一夜を共にすることとなったが、遠く離れた地で現実に起きている信じられないような映像がTVから流れ続けるのを見るにつけ事態の深刻さをあらためて認識するに至る。その日のlogは全く通じない携帯電話・メールをあきらめて、比較的つながり易かったネット(ツイッターも役に立った)を利用しようと、板東氏宅のノートパソコンから自分のサイトにアクセスさせてもらって残したもの。ことが済んだら消去するつもりだったが、その日を忘れないために記録として残すことにする。一夜明け都内のメトロ等は概ね復旧したものの、長距離列車が東海道新幹線以外まったく機能せず、結局12日も夕方近くまで都内に足止め。その後ありがたいことに軽井沢方面に移動する板東氏の車に同乗させていただいて(上信越道方面は高速が通行可能だったので)20:00前後に帰宅となった。長野も北部県境にて誘発された地震のこともあり、ご心配をいただきましたがなんとか無事に落ち着いております。今回お世話になった方々にあらためて感謝申し上げますとともに被災された地域の一日でも早い復興を願うばかりです。いろいろな意味で、その後、これから…を考えてみたい。