Jin Nakamura log

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暗黒神話

またタイトルがダーティーというかキッチュというかいかにも70年代というか…古書の山からつい手に取ってしまった一冊JUMP SUPER COMICS「暗黒神話」。持って帰ろうかどうかだいぶ迷ったんだけどね。諏訪の酒蔵で開催の古書市で冒頭、蓼科山、茅野市尖石縄文考古館あたりからのプロローグって、遊歴書房のベタな編集セレクトにあっさりのっちゃった格好。ヤマトタケル伝説を軸にアートマンの使命をもつ数奇な運命の少年がブラフマンに導かれ弥勒へと転生していく…て、これでわかる? ちなみにアートマン=芸術男じゃないからね。「意識の最も深い内側にある個の根源」なんだそうだ。ブラフマンは仏教界ではキャラ化されており「梵天」さんなんだが本来はこちらも「宇宙を動かす最高原理」とどちらも基本コンセプトが哲学的すぎて少年誌にはいかがとも思われたが、発刊当時は押しもおされぬオカルトブーム、奇想天外な神話的ピースと仏教的ロジックを面白おかしくパズルにはめ込んだチープなコラージュ的コミックは一応は受け入れられたのだろう。それにしても絵がいただけない。劇画とギャグマンガの中間みたいな5頭身キャラはもはや笑える…てそこまで酷評すんなら買わなきゃいいじゃん!てことなんだが、ヘンなモノ拾ってきちゃうんだな…たまに。おこちゃまがダンゴムシ拾ってポケットに入れて帰ってきちゃうようなもんだよ、たぶん。

それはそうとストーリー上で「神道集」を引き合いに、甲賀三郎伝説や九州クマソの古墳群、宇佐八幡と邪馬台国伝説などたしかに著者でなくても我が国の神話・伝説はのめり込む素材としては面白すぎる。それにしても伝説の地・諏訪と僕の住まう浅間山麓は地底国の風穴でつながっていたとは…。確かに近くの真楽寺というお寺にはかの甲賀三郎が龍に身を変えて姿を現したというきれいな池がありますもんね。なんか諏訪とご縁を感じますよ。

写真は左端は、お散歩コースから望める蓼科山。三郎さんが地底国に迷いこんだとされる場所で古来霊山とされてきました。我が地元のおばちゃんたちはなだらかな山頂に白き雪のうっすらと留まるを乳輪に見立て「おっぱい山」などと称しております。う〜ん、たしかに真横から見ればイイ感じのソレに見えなくもない…。

僕は風穴は通りませんがこの山の脇の峠道を越えてここ数年ちょくちょく諏訪におもむくこと多し。

Tokyo day〜Nagano day

たまには出先から投稿。
本日はブーランジェリーの長男と受験真っ最中の末っ子の三人で川の字だー。部屋に入ったとたんムッとする男臭であったが5分で慣れた(低みへの順応はカンタンである)。ちょっとだけでも一緒に呑もうとアルコール持参でやって来たが、パン屋は朝が早いし、もう片方も、明日が本命の受験とあって二人ともさっさと寝息をたててる。おかげでチチはヒマを持て余し、独りワンカップを開けながら、とっても打ちにくいiPoneのタッチパネルでカキコ。…て、いくらヒマとは言え、話しが極めてどうでもいい内容だな。

そいやつい先ほどまで劇団の新作のためのブレーンストーミング。テーマが夢だったのには、不思議な巡り合わせを感じた。その中でひとつ、寝るときに見る夢と、望み、希望(I wish…)のソレと同じ表記であることを不思議に思う。英語のdreamもそうなんだよな、なんでなんだろ。
そろそろ打ち込みつかれてきた、
ので今晩はこれまで、明日はまた昼までに長野に戻らねば。

+

ここから先は標高差900M(時間差20時間後・日付は同日)ほど、関東平野から山麓に戻ってからの投稿なり。絵巻物でいったら異時同図法ってとこか(なんでも例えればいいいってもんじゃないが)。さて昨晩の疑問に添うと、就寝時の「夢」は「希望」と同義。ならば、うなされるような悪夢にもなにかしらの希望の一端が含まれてるやも知れず…などとますます不可解なことばかり。

明恵の「夢の記」の話題は継続中。で、この夢を記するという行為だが、いつぞや自分でもと宣言してみたものの、これはかなり困難な試みであると最近は感じている。当然だがそんな毎晩啓示的な夢を見るわけもなく、ほとんどが意味不明、あるいは公表するもためらわれるような雑夢(それが雑夢かどうかの判断も難しい)であれば興味を継続させるエネルギーも瞬く間に枯渇し、河合氏の言葉を借りれば「夢というものは覚醒時の意識と簡単につながるものではない」ので要は覚えてらんないのよ。

それを思うと明恵は19才から示寂する直前のほぼ40年間の夢の記録を残してる(しかも解釈付)という事実に驚嘆する。こうした文献は世界的にも希有とのこと。というわけで僕ごときがあっさりなげだしとしても誰も責めてはいけないのだ。

夢日記

僕は黒猫であった…そしてなんか「解放しろー!」というような感じのことを叫んでいる。僕はパツキンの髪の毛デコ盛りの貴婦人であった。一晩にまったく違うモノになった。臨死体験から現世に生き返った人が、覚醒した自分の傍らに咲くチューリップを見て「あれは自分だ…」と言ったって。「私」と「世界」は同等…あるいは一緒ってこと。同義ではないがそれって「色即是空/空即是色」のニュアンスに近いな。徹底した言い方をすれば例えば前者は小丸(最近ウチにきたネコ)ちゃんと僕はいっしょ。後者は両性具有?(飛躍し過ぎか)。芸術家は両性具有でなければならぬ…と言い切る作家もそういえばいたっけ。ま、今回の場合自分の下半身を確認したわけではないのでもしかしたら単なる女装だった可能性もアリだが。

以前にも印象深かったのはたま〜に書いたが「夢日記」ちょっと積極的に記録しとこうかな。それにしても夢ってなんあであんなに急速に忘れていくんだろ。あり得ないような体験してるはずなのに…。

写真は早朝の現実世界。

小丸

こまさんとよばれています。目の上の白いとこがなんかシベリアンハスキーっぽい。けっこう美人よ。

でもおてんばすぎなの、おこまさん…。

分枝

映像作家machida氏のディレクションの「分枝/branching-03」(ネット版はこちら)に寄稿。創刊から誘われていはいたのだが、なんかいつもタイミングを逸していたので今回は締め切りの翌日に滑り込みで。ずっと使うの迷ってた雅号(画号)…とりあえず俳号として様子見でデビューさせてみた「ヨキシズク」…う〜んこういうのいってそのうち慣れんのかな…。

さて僕の最近の「分枝」は…というと「アマチマリ」。漢字で書くと「天地」「真理」ですからね、名前にチカラ有りすぎっしょ。この名に匹敵するのは僕は「ソラウミ」「空海」しか思い浮かばない。

僕が国宝善光寺の池でカメ獲って怒られてた中坊の頃、かのキレイなおネェさんはすでにTVのブラウン管の中の国民的アイドルだったわけです。で、数日前になんとなく唐突にココロの枝先にひっかかったので本日TUTAYAにてたった1枚だけあった「MariAmachi Complete Shingles Collection and more」を7泊8日レンタル。感想は後日聴き込んでからにでも。

もひとつの「分枝」は以下used コミック「八雲百怪」「木島日記」。前者はその名の通りラフカディオ・ハーンが、後者は日本民俗学の創始者の一人・折口信夫などがメインキャラとして登場し、画風とテーマ・明治という時代背景がちょっとオモシロそうだったので購入。原作者は別で大塚英志

とまあこんな感じで興味の枝はとどまることなく、また予期せぬ方向へのびていきますね。でも根っこはさすがに忘れないと思うのでだいじょうぶ。

で、明日は古書店見習いとして神田・神保町あたりに出没…てまた妙な方向に…。

ま、どの枝の先に花が咲くのかまったくわかりませんがね。

ていうんだ三回忌。

さて本日は義母の法要。歯に衣着せぬタイプ、涙もろく、なんでも思い込んだら一途な人であった。入籍直後から「オマエは息子になったので今日から呼び捨てにする…」といって以来ずっと実母と同じように僕を呼んでいた。○○さん…などと呼ばれたことはない…が晩年は多少丸くなったのかたまに“ちゃん”づけに昇格することもあったが。

堅気の仕事に辞表を出してから一応あいさつに言った時も、途中から正座に座りなおして聞いていたのを思い出す。地方公務員から一転ヤクザな稼業(マジでそう思ってたことだろう)に身をおくことになったムスコ殿の事後承諾の報告に言葉を失っていたようだが切り替えも早く、以後はその件について一切なにも言われたこともなく仲良くしてもらっていたな。ジントクかしら。

お経のあとみなで近くの墓参りなどにもいくのだが、うたの文句でもないけれど、あのシレっと磨かれた御影石みたいなやつの下にいるのかもどうか僕にはわからないので墓前の読経のときもなんとなんく上の空で、そろそろ根雪になりつつある浅間のいただきあたりをボーっと見ていた。案外彼女のタマシイはそっちの方にいたのかもね。

ことの成行き、住職のお誘いで今度座禅と写経絵に初めて行ってみることになった。

+

一昨日投与したインフルエンザワクチンは体内でせっせと抗体を作る作業をしているらしく、なんとなく体調にも違和感がある。ま、予防のためだがカラダに対して不自然のことしてるんだから仕方ないか。

TERA-project_4

さて見仏界の先駆けMJ氏(みうらさんね)風にいえばMY寺院(これって今寺院=イマジンとかかけてんのかな)建立ってことなんだけど実際仮にも宗教施設であるとするならば(なワケないか…でも宗教についてちょっと考えてみる…ことはできるかも)何かしらの宗旨というものがあってしかるべき?(なんで疑問形?…ちょっと自信なかったりする)まあ、大ざっぱにはBuddhismでいいんですが(じゃないと仏像彫れない仏画描けない)日本の仏教は奈良以来の伝統宗教だけでも十三宗五十六派と言われてますからね。当然それによって安置するご本尊もちがいますし伽藍配置などの様式も異なるので、何をツクルか何を描くかにかかわる重要なポイントなわけです。

教義の根本(いつのまにできたんだ?)は一応ポジティヴシンキングですからどちらかというと来世救済系よりも現世利益系でしょうかね。たとえば末法思想を元に、生きてる間に救われるのはムリなんで極楽浄土でなんとか…という浄土系宗派はやはりどうしてもお寺と“死”のイメージと直結しますね。生きることに絶望した先の死後の救済はやはりよほど折れないココロがないとネガティヴに傾倒してしまうだろうな。西方極楽浄土はそりゃ描きがいがありそうな美しい世界なんだろうけど…。一方(スンマセンすっげー大ざっぱな対比です)せっかくならこの世でなんとか…といえば真言宗に代表されるような密教系でしょうか。神秘主義的な教義・修法によって即身成仏をめざすわけです。生きたままホトケですからね、これはすごいです…けど、先の浄土系のような顕教が経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し、特別な修行をおさめた特殊な能力を持つもののみがその真理に近づけるという感じ(あくまでも感じです。詳しくは自分で調べてー)だからさ、「…いわんや悪人をや」なんて言っちゃった親鸞さんみたいにだれでもOKてことにはならんのでしょ。だがしかし!空海さん考案デザインの曼荼羅系ビジュアルはカッコ良すぎるし、実際それでBuddhismにハマってるようなもんだし。あー禅宗系もシブイしな…ってもうどないしましょ。

まあ現世だ、死だ、来世だ…といっても、そしてそういうことがあるとしてもそれは想像もつかないひとつの大きなサイクルなわけでしょうから、はやりあらためて注目すべきは“今”なんでしょうね。今ちゃんと生きないとちゃんと死ねないってことですよ…よくわかんないけど。

う〜ん、TERA-project…まじめに考えすぎるとあたりまえだけど奥が深すぎるので、案外もっと薄っぺらでいいじゃねって思いはじめたぞ…そんでもって大まじめ、ね。

次は伽藍について考える…(エエかんげんにしなさい!)

TERA-projet_3

もうバレバレでしょうけどね、えぇそうですよ、言ってしまえばね、ナカムラはただハコをつくりたいだけなんですよ。仏つくって魂入れずなんてこと言いますけどね。ツクるという行為のなかにすでに入ってんですよきっと。だいたいタマシイの入らないモノつくるほうがむづかしいっしょ、開き直っちゃいますけど。

だってホントつくりたいモノだらけなんですから。ご本尊はもちろん壁や柱に施される仏画でしょ、天蓋からはじまってなんなら木魚とか僧衣とかだってデザインしちゃいますよ。当然それらが納まるお堂そのものもね。軽トラのせて移動式となると荷台にセッティングされるイメージお厨子みたいな感じかな。ならお仏壇屋さんとタイアップってのもいいな、でもそれって想像すると一歩まちがったら霊柩車っぽい?…だがしかし!見ようによってはあの超デコラティヴな移動式日光東照宮的な感じ、あれはあれですごくね。あんなんで死体運ぶとこ世界中他にあんのかしら?…って、この段階でチラっとwiki検索したらあの度肝を抜く和風カスタム(そう言うんだ…)、各国からオファーがあるんだとさ。実際あれインドとか走ってたら逆にフツーっぽいもんな、牛がとなりにいてもなんかしっくり。そう例えばベースのステーションワゴンがブラック以外の塗装(白とか朱?う〜んどうだろ)だったら急に晴れ晴れしくない?もう町なかで見かけても親指隠したりしなくていいんだよ。夢は膨らむでしょ…。

しかしそうは言っても初めにハコありきで、それから住職(なんなら教祖でもいいけど)募集ってさ、なんかどっかのチェーン店のまず店つくっちゃってそんで“店長募集”みたいね。ま、本店(寺)勤務の兼任でもいいんですけど。創っちまったブツへのタマシイは気合いで入れられてもお坊さんはなァ…やっぱ大事なのは人ってことかぁ。だれかこんな戯言をご理解いただけるココロの広〜い店長いやもとい、住職さん!いない?

とういわけで次回は宗旨について考えてみましょう。(まだつづくんかい!!)

TERA-project_2

今日はソラがつまんねーなーって思ってたら午後から久しぶりの雨。夏以来土日は毎週油やのお店番だったので結局日々の仕事にそれが加わりお休みなしな3ヶ月。日曜に雨の音聞いてボー(としてもいられないんだが)っとしてるのも考えてみたら久しぶり。

さて、こういう日はとりとめもない思索によろしいので調子にのってTERA-project_2…いってみますか。

実はあんなこと書いたあと、なんのあてもなく本屋入ったらまた目が合っちゃった…「お寺の基本」(やっぱヤレってことかなー…て思い込み?)。ここ数年ブームだからね、仏像の入門書とかはホント多いんだけど「寺」の成り立ちや基本を解説した本て案外珍しいのね。で、そもそも寺ってナニ?ってことですよ。仏教はもともと偶像崇拝禁止だったわけだから仏像が造られ始めたのはお釈迦様の時代から500年後くらいだけど、お寺の原型はインドの雨期、雨風をしのぐために建てられたお釈迦様たちがが修行した精舎とういことですからもう2500年くらい前からあったわけですね…って本に書いてありました…ナルホドね〜。

ま、要は修行のためのハコですよ。そう言う意味ではそこにちゃんとした教えがあれば本来はハコなんてなんでもよいわけで、逆にイレモノが妙に立派すぎるとやはり権威主義っぽくなりますね。世界中の宗教の創始者たちはおそらくナニかしらのスピリチャルな体験をもってソレを発展させてきたのでしょうけど、信者が増えて教義として組織化されてくると、そこに支配や管理が必要とされたり(なんせ人のすることですから)あるいは確実なモノを見たいあまりビジュアル系幻想を追い求めたり(これも人の性)とにかく妙な方向に進みやすい。ほんとうに個の力を信じれば特別な教祖さまのレベルではないにしろ、ちょっとした超物理的な次元の直接体験なんてなにも特別な場所に行かなくてもよいかもだし、あるいは霊的な世界と接触するための媒介もほんとうはそんなに必要ないのかもしれない、実はみんなフツーにそんなチカラあんじゃネーの…ってアレ?このままいくと“寺”いらねぇじゃん!ってなりそ…おかしいな…え〜…軌道修正します。そうはいっても依り代ですよ、個のチカラは各自磨いてください。ココに来たら救われる…とかご利益が…とか思っちゃぁいけません、ただなんか前向きにいけそうなきっかけがあったらよいなー…

to be continued(つづくんかい!)