Jin Nakamura log

生活の過剰

2011,5/11(水)〜17(火)銀座煉瓦画廊にて「東日本大震災の復興を祈年して〜画廊コレクション+10人の作家によるチャリティー展」に急遽参加。画廊コレクション版画作品と今回自主制作したwebサイトトップページ画像A2ポスター「命字系」を出展します。なおポスターは現在おぶせミュージアム+FLAT FILEでも復興支援の目的で取り扱っていただいてます。引き続きご協力いただければうれしいです。

以下に今回の煉瓦画廊のDMに添えられた芥川龍之介の言葉(4/7毎日新聞コラムより)を添付。

「芸術は生活の過剰だそうである…しかし人間を人間たらしめるものは生活の過剰である。僕らは人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ…過剰を大いなる花束に仕上げなければならぬ。」

「人間を人間たらしめる」営みは、震災で壊れた世界を少しづつ修復していくだろう…とコラムは結ぶ。

セツナサ

何年か前に車のラジオから流れてきてずっと気になっていた「朧月夜〜祈り」。いつかちゃんと聴きたいと思っていた。このアーティストの声は切なく、そして魅力的だ。ビジュアルがなんとなくダーティー(?)なので普段はあまり聴かないんだけど…(そいう理由もヘンだが)。

原曲の唱歌「おぼろ月夜」は北信濃出身の高野辰之が作詞している。「菜の花畑に入り日薄れ…」の歌詞は有名だが、2番を改めて聴くと高野の生まれ育った原風景への慕情がいたいほど伝わってくるようだ。「里わの火影(ほかげ)も、森の色も、田中の小路をたどる人も、蛙(かはづ)のなくねも、かねの音も、さながら霞める朧月夜」あれもこれも、ここもあそこも…と、ただただ子どものように言い連ねているだけだなのだが、そこがまた切ない。僕らにとってのふるさととはそのようなものだろう。そしてこの詩に描かれた風景は長野県飯山市に今でも実在する。ちなみに唱歌「ふるさと」も高野の感性が紡ぎだした作品。

COVER「朧月夜〜祈り」はバイオリンをベースに編曲されていて、これがまた泣かせる。「琴線にふれる」という言葉があるが弦楽器ってひとのココロをなんでこんなにざわつかせるのだろう。平安の御代に日本から遠く離れたふるさとをひたすら想い、鬼となった輩(やから)が「玄象」という大陸から渡った宝物の琵琶を盗んで羅生門で切なく奏でる…という古い話を思い出しながら自分の生み出すものに欠けているのはこの「切なさ」かもだな…などと考えている。芸風だからしかたないけど、でもいずれそんなものが少しでも醸し出されたらいいと思う。

桃山

blogで茶の湯や骨董の話を書いていたら「桃山」あたりのことが急に気になりだして、以前から気になっていた「へうげもの」…ついに手を出す。話題には上ってることは知っていたが、古田織部が主人公ってかなりマニアックだし、探して見つからなかったらお店の人に聞けばいいや…って思ってたらいきなりTSUTAYAのコミック本コーナー入口に特集で山積み。となりのONE PIECE平積みコーナーは理解できるが、古田織部がなんでこんなに一般的にフィーチャーされるのかな。高3のムスコもさすがに数ページで投げ出した。それが若者の正しい反応だと思う。ヤツがついて来れるのは「テルマエロマエ」か「聖・おにいさん」までだろう。「基礎知識がないと読めないのさと」と上から目線で揶揄すると「信長の黒人の側近名前を知っているか」と張り合ってきたので無視することにした。そうは言っても面白くなかったらイヤなのでお試しに2冊だけ買い、その後レンタルコーナーでこちらも以前から聞きたかった2004年に限定販売でリリースされた中島美嘉のミニアルバム「朧月夜〜祈り」を借りて帰る。

現代作家茶碗特集

表題の企画展(2011,8/17〜30 日本橋三越本店6F美術工芸サロン・アートスクエア)参加依頼あり。現代陶芸界で活躍される35名の諸先生方の末席に加えささせてもらう。しかもテーマは「茶碗」、だいじょうぶかな…。チト不安もあるが楽しみなお題でもある。

以前岐阜の画廊から僕のサイトをみて展覧会のオファーをいただいたことがあった。どうやら“エセ古伊万里的芸風”が大層気に入ってもらったらしい。わざわざ長野まで出向いていただき、初対面の折りいろいろ話を伺っているとオーナーは業界ではかなり名を馳せた骨董商であり、また茶人でもあった。一時は国の無形文化財有資格者でもあった高名な陶芸家・加藤唐九郎を招いた茶会なども主催した御仁であるという。加藤の名と茶会と聞いて一冊の本を思い出した。季刊「銀花」61号・特集◎唐九郎のいる茶会(1985刊)。この特集記事に青年時代の画廊主が唐九郎と席を同じくしている写真が載っている。そしてたまたま僕はその本を持っていた。岐阜は茶の盛んな場所である、加えてオーナーもかような茶人である…さらに中途半端に茶の湯にも興味もあり…で、無謀にも(今思うと汗)個展用の作品のなかにいつくか「茶碗(少なくとも本人はそう思って作った)」を入れて岐阜に発送したのだ。

結局それらの“茶碗のようなモノ”はすべてバックヤードにしまわれ会期中展示されることはなかった。「呑み終わったあとの見込みの景色が美しくない」というのが理由だったと記憶している。朝鮮半島で日常雑器として焼かれていた「井戸茶碗」の如きを茶人は「わび」の美意識をもって見立てる世界。少々乱暴な言い方をすれば、どんなモノでも凹んでさえいれば多少のことは目をつむって後は茶人なる方々がなんとか見立ててくれるのだろう…などと思っていたフシがあったかもしれない。

ナカムラくんは「茶碗」なんかつくらなくていいよ…と言われ、その場で主(あるじ)自らの手で李朝の平茶碗にてさらっと立ててもらい、僕は無作法なしぐさでお茶をいただいた。5年前の話である。

さて、ホンモノの茶人に「つくらなくていいよ…」と言われたが依頼が来てしまったのだから仕方がない。あれから5年が経った。この件に関してなんの進歩があったかと問われればまったく心もとない。とりあえず「見込み」らしきものはつくろう。あとはやっぱりつくりたいようにつくろうと思う。そして恥をかいたらまたそのとき考える。楽しみである。

collaboration

多治見の製陶会社よりデザインを渡しておいた上絵用の転写シールが届く。本焼きされた蕎麦猪口に貼って上絵付け焼成(800℃程度)すると発色して定着する。基本的にはその作業まですべて現地の窯元でやってもらうのだが、一部別な作品に自力で転用しようというもくろみあり分けてもらった。同時に今までシルクスクリーンにて自分で呉須下絵用のシールを制作していた「印判」を今回は本来の銅版転写で、これも瀬戸の職人さんの協力を得て制作中。さらに九谷の伝統技法「いっちん盛り」で招き猫(以前背中だけ紹介した)をデザインとサイズを追加して5体制作に入る。…言葉にすればそれだけのことだが、デザインする人、制作する人…結局人対人、それぞれのプライドとリスペクトが交錯し手探りで仕事がすすむ。作家同士のコラボレーションも刺激的だが、こうした絡みも良い。なおこれらは全て5月末から6月頭の2つの展覧会で閲覧可能。

マッチラベル蒐集家・加藤豊とアーティスト・なかむらじんのマッチ・コラボレーション。明治という近代に突如出現した痛快無比な商標マッチラベルデザインの数々。その独特の意匠・キャラクター、 和洋文字、 装飾の絶妙さは現代のブランディングをかるく凌ぐ !?
てなコピーで始まるコラボ展。かなりチカラ入ってます。今回相方の加藤氏も経験豊かなグラフィックデザイナーなんですが、お前がやれ…ということでDMデザインはナカムラが担当。6/1〜7 丸善丸の内本店4FギャラリーA(東京駅出てすぐのオアゾです)。かなり濃い〜ィ世界だと思いますが新作リトグラフ10点まずは思いっきりやりきりたいと思います。お出かけくださいね。

live paint

こうした企画に携わっている喜びの一つはやはりアーティストとの出会いだろう。次から次へと沸きイズル若い能力は頼もしいかぎり。けして楽ではないが是非ともアートのチカラで生きぬいてほしいものであるね。境内でも気になる作家は何人かいたが今回はOZくんの技を紹介しておこう。

酒室

5月末から6月の2週にかけて続く2つの展覧会出展作品の外注分デザイン制作をなんとか連休前に受け渡さなければならず、blogの更新もままならないが、だらだらと間を置くのもいやなので中断していた境内レポートを。今年の境内企画・建築家/縣孝二氏の「酒室プロジェクト」メイキング画像も含めて紹介しておきます。完成度高いでしょ、さすがです。でもホントは床が酔うまえに揺れるはずだったんですがね。

道場にドウジョー!

そういう看板をつくってしまったせいかどうかはわからないが。今年は山門左奥、“道場”ブースが超充実とのウワサあり。以前から一部作家の間では注目されていた場所ではあったのだが、なにせ時は四月中旬北信濃、板張りの広間はいかにも寒々しく敬遠される向きも多かったかもだが、今年は一部輩が電気こたつなどを持ち込みやがってなかなか快適スペースとなった。*写真上はナカムラの展示風景。