川の風祭り2014-2
- By jin
- In art event exhibition
- With No Comments
- On 31 10月 | '2014
2011年の三原谷で展示した弥勒菩薩のスケッチは3年を経て右図着彩本画「Bodhisattva 弥勒」(和紙、アクリルガッシュ、金銀箔/90×60cm)となった。なんとなく仏画を描こうと思って最初に浮かんだビジュアルが弥勒菩薩であった。尋常ではないキャラクター数の仏像界にあってなぜこの人であったのか理由は分からないがとにかくこの顔が浮かんだのだ。その後如意輪観音(のような人)の連作を6点ほどと弥勒の父・修梵摩、 母・梵摩跋提を背中合わせに描いた二天背合圖、迦楼羅王、お不動ちゃん…と、振り返ってみるときちんと本画にしたのはこの3年間でその程度。筆が遅いな…が、まあそれでもよく描いたほうか。
さて豊岡だが、「Bodhisattva 如意」の近作はすでに現地に発送済みだが、多少なりとも新作を…ということで今回もスケッチ風で恐縮だが四天王さんをお連れします…が、がんばったんですけどフルメンバー無理かも…。
そうだった…告知し忘れてました。
今回で3回目の出展となります「三原谷の風まつり2014」今週末 10/25+26 会場は豊岡市竹野町三原谷の旧大森小学校。
今回の出展作家は縣考二・藤原次郎・黒田征太郎・渡部裕子…とナカムラです。展示プランとしては建築家の縣氏設計の茶室プロジェクト+書家の渡部氏による立体書とコラボしながら六本木で展示した旬の仏画をレイアウトします。あ、あと茶碗でも参加。
他にも楽しい美味しい企画が毎回満載!関西方面の方(でなくても〜)是非お出かけください!!
*写真は2011年、前回出展時の会場からの風景。不思議で素敵な場所。自分にとってモノをつくる上でもひとつの啓示を得た特別な場所かもしれない…。
タコをおぶってママチャリに乗っている夢をみた。
タコは蛸である。8本足(手?)の内の2本を上手にボクの背中からクビにかけて、そりゃあもう愛らしいタコであった。なんか本当にかわいかったのだ。
このタコ、しばらく前までは(夢の中のことなのでほんの数秒かもしれないが)タコではなかった。赤毛の大型犬かオオカミ…あるいはキタキツネに近い哺乳類であった。蹄(ひづめ)のある少々骨張った前足をやはりボクの背中からクビにかけて上手に負ぶさっていたものだった。ただそのときは自転車ではなくクルマを運転していたのだが。
そんなふうにしばらく走っていると路面はいきなり冬道となり氷の轍(わだち)が現れていつしか乗り物はクルマからママチャリにかわり、背中には真っ赤なタコがいた。
この後ボクとタコはペダルを漕ぎながら海に入ってゆく予定だったが、ここで目が覚める。おしっこをしたくなったのだ。もしそのまま海に突入してびしょ濡れになっていたらきっとおねしょだったことだろう。お子ちゃまならそうなるところだろうがボクはオッサンなのでちゃんと起きて用を足す。
世界広しと言えど「タコをおぶってママチャリに乗っている夢」などみるヤツはいるのだろうかと真夜中の寝ぼけたアタマで考えてみる…が、眠いし、どうせ朝になったら忘れちゃうだろうと思い再びふとんにもぐったのだが、翌日一日を過ごしてもいまだ覚えていたものだから、こうして久しぶりに夢日記として残すことにした。
つづき…。
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たとえば仏教を英語で考えるととてもつまらない。
だって「空」は「empty」なんだから。もしAll things are empty…と語ったとすればだれも「すべてのものは空(くう)である」なんて英語圏の人々は当然理解しないだろう。「みんなからっぽなんだってさ!」って笑われて終わりかもしれない。でも日本人ならたぶん笑ったりはしない。よくわからないなりに一応は想像してみる。でもやっぱりなんかモヤモヤとしたかすみのようなものしか見えてはこないけれど。
ボクの文章とナーガールジュナの残した般若心経を並べて引き合いにだすのはあまりに恐縮だが大筋こんな障がいが和文を英訳しようとすればまず立ちはだかる。
もう一つ。
ボクは文頭で「仏画は宗教に関わるもので、信仰の対象であるから表現の対象にすることをしてこなかった…」と書いている。なんとなく謙虚な気持ちを伝えようとする雰囲気で書いているが、その英訳を考えればかんがえるほど、その言い訳は全く理解されないような気がしてきた。なぜなら西洋美術の3大主題は「宗教」「生と死」「エロス」でしょ。中でも宗教美術は特に古来先人たちが熱心に取り組んできた表現なわけだし…とか考えはじめたらもうこの文章を英訳してなんかいいことあんのかい!って気分になり、結局以下ほぼ全面改訂に近い内容の文章になったのだった…。
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Essentially Buddhism is a philosophy rather than a religion and this spiritual side does’t fit the original Buddhism. For example the image of salvation after death is no more than a concept with very few part of buddhist sects. Though this emphasized impression descended to the far distance Asian island of Japan from the birth place of Buddha. So we Japanese naturally join our palms together in a spiritual feeling when we face the old buddhist arts.
But it was taboo to idolize in the original Buddhism. Disciples only prayed to the dharmacakra (holy wheel) or the footprint of the Buddha after his death. So they couldn’t feel him very much. And at last, hundred years later they have created replica of the Buddha. And the longing appeared as an idol.
So looking back on beginning of Buddhism, now we are able to visualize easily a dazzling Buddhist world. If they didn’t broke a taboo and they did’t create idols, we had no way to feel him like a past saint except from the wheel and footmark. Since the “official” introduction of Buddhism to Japan in 6 century, people long ago made and kept the many Buddhist statues and pictures as an idol.
An idol is an image or other material object representing a deity in the West, but the word “an idol” in Japanese culture means especially attractive,lovely or cool person. In this way I reinterpret their work and modernize these religious idols to fit into this generation. So just as we enjoy our Japanese idol, I want my viewers to enjoy these many aspects of Buddhism in a light-hearted way.
仏教世界のキャラクターが描かれているわけだからジャンルを問われれば「仏画」ということになるだろうが、このカテゴライズは自分の中ではまったくしっくりこないし、どこか落ち着かない。そもそも宗教だし、信仰の対象だし…そういうモノに手を出そうと考えたことは実はつい最近までなかった。では齢半世紀を生きたところで、少々弱気になってそろそろ現世とは異なる次の世などを考え始めた末の所業かというと別にそんな理由でもない。
そもそももともとの仏教は宗教というよりは哲学に近く、そのような神秘的側面はそぐわなかったであろうし、まして死後の世界の救済的なイメージなどは数ある仏教宗派のほんの一部の概念であろが、いずれにしても仏陀生誕の地から遠く離れたこのアジアの東の果てにはそのような印象がより強調されて伝わってしまったので、何れ仏像・仏画の前に粛然と向き合う時ぼくらは自然にスピリチャルな雰囲気に寄り添い思わず合掌したりしてしまう。
しかし本来仏教は「偶像崇拝禁止」。弟子たちは教祖亡きあと、法輪や仏足石などのヒトガタでないものにわずかにその気配を感じ信仰の対象としてきたが、その数百年後ついに彼らは我慢できずに創ってしまった…そして「憧れ」は「偶像」となって立ち現れる。おかげで創始以来2500年後の僕は今、めくるめく仏教世界のビジュアルを容易に想像できるようになった。もし彼らが禁を犯して偶像を創らなかったら未だに我々はワッコやヒトの足裏の型にただただ遥かなる過去の聖者の気配を感じるしかなす術はなかったはずだ。僕は今のところ敬虔な仏教信者ではないが、この件に関してはそうならなくてほんとうによかったと思っている。
趣味的対象として10代の頃からだからずいぶん長い間親しんできた仏世界、そんなに好きなら描けばいいか…動機はそんなとこ。その背景が哲学であれ信仰であれ、中学生みたいな表現で恐縮だが、ただただ美しくカッコいいブツを描いてみたいだけなのだ。釈迦入滅数百年後の信者もおそらくそんな気分だったのでないだろうか…と想像している。
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以上は9月に六本木 Shonandai MY Gallery の個展で会場に提示した書面。主要作品の制作意図に着いて書かれている。会期終了後この文章の英訳をギャラリーから依頼され、ま、なんとかなるかなーと軽く引き受けたが…なんともならんかった。たまに自分の文章を英訳してみるといい。どんなに無駄な語彙が多く、理論的に組み立てられていないかがよくわかる。詩人が書いたちょっと長めの文章だと思えばいいような気もしないではないが、やはりイメージ先行、雰囲気はあるけど結局何が言いたいのかよくわからん系に…て書いていてまたたぶんこの文、英訳不可…あるいは半分以下の文章量におさまるんだろなと思う。
で、また長くなりそうなので…つづく…。