Translation
- By jin
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- On 1 10月 | '2014
仏教世界のキャラクターが描かれているわけだからジャンルを問われれば「仏画」ということになるだろうが、このカテゴライズは自分の中ではまったくしっくりこないし、どこか落ち着かない。そもそも宗教だし、信仰の対象だし…そういうモノに手を出そうと考えたことは実はつい最近までなかった。では齢半世紀を生きたところで、少々弱気になってそろそろ現世とは異なる次の世などを考え始めた末の所業かというと別にそんな理由でもない。
そもそももともとの仏教は宗教というよりは哲学に近く、そのような神秘的側面はそぐわなかったであろうし、まして死後の世界の救済的なイメージなどは数ある仏教宗派のほんの一部の概念であろが、いずれにしても仏陀生誕の地から遠く離れたこのアジアの東の果てにはそのような印象がより強調されて伝わってしまったので、何れ仏像・仏画の前に粛然と向き合う時ぼくらは自然にスピリチャルな雰囲気に寄り添い思わず合掌したりしてしまう。
しかし本来仏教は「偶像崇拝禁止」。弟子たちは教祖亡きあと、法輪や仏足石などのヒトガタでないものにわずかにその気配を感じ信仰の対象としてきたが、その数百年後ついに彼らは我慢できずに創ってしまった…そして「憧れ」は「偶像」となって立ち現れる。おかげで創始以来2500年後の僕は今、めくるめく仏教世界のビジュアルを容易に想像できるようになった。もし彼らが禁を犯して偶像を創らなかったら未だに我々はワッコやヒトの足裏の型にただただ遥かなる過去の聖者の気配を感じるしかなす術はなかったはずだ。僕は今のところ敬虔な仏教信者ではないが、この件に関してはそうならなくてほんとうによかったと思っている。
趣味的対象として10代の頃からだからずいぶん長い間親しんできた仏世界、そんなに好きなら描けばいいか…動機はそんなとこ。その背景が哲学であれ信仰であれ、中学生みたいな表現で恐縮だが、ただただ美しくカッコいいブツを描いてみたいだけなのだ。釈迦入滅数百年後の信者もおそらくそんな気分だったのでないだろうか…と想像している。
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以上は9月に六本木 Shonandai MY Gallery の個展で会場に提示した書面。主要作品の制作意図に着いて書かれている。会期終了後この文章の英訳をギャラリーから依頼され、ま、なんとかなるかなーと軽く引き受けたが…なんともならんかった。たまに自分の文章を英訳してみるといい。どんなに無駄な語彙が多く、理論的に組み立てられていないかがよくわかる。詩人が書いたちょっと長めの文章だと思えばいいような気もしないではないが、やはりイメージ先行、雰囲気はあるけど結局何が言いたいのかよくわからん系に…て書いていてまたたぶんこの文、英訳不可…あるいは半分以下の文章量におさまるんだろなと思う。
で、また長くなりそうなので…つづく…。