Jin Nakamura log

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回を増すごとに盛り上がりを見せている中之条ビエンナーレ。今回もまるで「るるぶ」片手に有名観光地をめぐるような女子旅風景があちこちで見られ、その成功実態を目の当たりにしてきた。もちろん彼女たちの手にあるのは「るるぶ」ではなく観覧パスを購入するとセットでついてくるA5サイズほどの公式ガイドブック、散策するのは祇園界隈の歴史情緒ある路地などではなく、典型的なシャッター通りのうら寂しい商店街や「この先ナニかあんのかい!」ってツッコミたくなるような不安な山道…等々。そして都会からやってくる、ど田舎街にはおよそ似つかわしくない派手なツアーバスからは若い男女が古びた廃校のグランドに次々に吐き出されいく…。

「最近の街起こしの成功事例のテーマはB級グルメと現代アートだって聞いたんだけどホント?」

信越線開通以来急激に没落した旧中山道追分地区の再生を切に願う、我が油やプロジェクトリジチョーのS氏からかような質問をされたことがある。ならばその実態を見に行きましょうか、車で2時間弱だし。ということで今回の温泉付き視察小旅行とあいなったわけだ。リジチョーはもともと金融業界のお勤め人で僕らのようなヤクザな稼業との接点があまりなかったわけだが、なまじ僕らの口車に乗って油や再生プロジェクトに「文化磁場」などという全く数字では計れないようなテーマをくっつけられたおかげで、幸か不幸か最近では帳場仕事の合間に回廊内にはびこるギャラリーに迷い込み、壁に掲げられた不可解な作品の前でたたずむ姿をちょくちょく見かけるようになった気がする。そして僕らのようにアートにすれていないそんな初々しい視点のフィルターをもって、いったいどのような反応を示すの興味深々で、かの成功例を検証してみたく是非にとご同行願った次第だ。

「アートは感じればいいんだよ」てなこと言われてもねぇ…。そんな言いようも少々上から目線で傲慢かもな。もちろん芸事だから鑑賞者も研鑽を積んで見えてくる世界もある、が、それは表現する側にも言えることで、いやプロであるならば当たり前だがそちらの方が重要でちゃんとホンモノであるかどうかが問われるわけだ。「アートは感じればいいんだよ」と本気で言うのなら初めてそういうモノを目の当たりにする人のココロのホンのはしっこでも揺さぶるモノを生み出すのがアーティストでしょ。芸の道はキビシイ。

というわけで僕は今回とっても良いフィルターを傍らにおいて、B級グルメと一緒にされてしまった現代アートなるものを楽しく鑑賞することになる。

で、やっぱりつづく…

reviewーNAKANOJO BIENNALE 2013

10/14ですでに終了している中之条ビエンナーレ、まだちゃんとしたレビューをあげてなかったのでご報告。前回に引き続き今回も油やスタッフとともに視察名目で湯治場宴会を企画、なので今回は四万温泉前泊だい。

それはさておきハイ、さてこの中にアートはいくつ隠れているでしょう…って前回もそんなことしたような…。

答えはゼロ。そういうもので満ちあふれた現場にいくと、ついついなんでもかんでもアートっぽく見えてしまうもんです。事実中之条の人々の幾ばくかはぜったい張り合ってるフシがある。あんなことなら自分でもできそうだと…。以下の写真は比較的無欲に取り組んだ(?)であろうブツであるがやはりそういものの方が面白みはある。ただ写真上中央「不純異種族間交遊之圖」は今もって作意的なものかどうかは不明也。また古い看板モノはその歴史的付加価値が郷愁を誘うが「オリンピックパン」はおそらくIOCの著作権許諾は得てないと思われ、人ごとながら余計なお世話的心配などするものだが、まあ東京オリンピック招致も決まってしまったことだし、何よりあまりにも歴史を感ずるたたずまいは、もうすでにこっちのもんだよね…って説得力でココが本家というほどの風情なので、ま、いっか。

といわけで、ここまで全くレビューになってないので、また少しだけ続く。

131027

アメリカで仏教を学ぶ

たぶんステキな本に出会ってる気がする。

ずっと不思議に思ってたんだお経…なぜアレがお葬式の時に読まれるのか。あんなものに死者を成仏させる呪文なんか入ってないのにと。ま、そう言い切ってしまっては身も蓋もないないが、たぶんそんな気がするのだ。例えば有名な般若心経なんかはアレは壮大な哲学書でしょきっと…ってあやふやなんだけど、じつはソコ、そのあやふやなとこが大問題だと思ってた。

仏教はもともとインドで生まれたものだから初期に作られたお経はインド語(パーリー語っていうのかな)で記述書体は梵字とかでしょ。それが中国に伝わって中国語訳される。記述書体は漢字となるわけだ。そしてさらにそれが日本に伝わるのだが残念なことにそこでは和語に変換されないまま現在に至ってる。いくら朗々とした声でも漢文をただ音読みされてもねぇ…漢字のニュアンスは一部なんとなくわからんでもないが、やっぱあやふやですよ実際。だから腑に落ちない。

有り難そうな雰囲気は醸し出すがそれはズルイと思うのだ。僕は日本の仏教者の一番の手抜かりはお経を和訳しなかったことと思っている。神道の祝詞なんかちゃんと日本語でしょ。古語も含まれてるから多少むつかしいけどせめてあのくらいにしてもらわんと。

などと悶々と考えてたら出会っちゃった「アメリカで仏教を学ぶ」。この国で出会えなかった問いに海の向こうから答えが届く、得てしてそういものか。

僕は中ボーの頃にただ仏像がカッコえ〜って始まった門前の小僧みたいなもんだから感覚的に本来の仏教はすてきなものだと思ってるが、やはりお経は難しい。十代の頃に最初に般若心経の本を買って以来ちゃんと覚えたのはつい最近。

難しいことを難しく言うのはあまり能力のある人のすることではないでしょ。英語はいい意味でボキャブラリーが少ないからシンプルにストレートに伝わってくる。彼らが「KANJIZAIBOSATSU…」とやらかしてなかったことに拍手を送りたい。だけど我が国の導師たちは「観自在菩薩…」と始めてしまう。意味がわかればこの宗教が持ってるポテンシャルがもう少し伝わる気がするのに。ま、小僧として言いたいことは山ほどあるが今日のところはこの辺で。

2週間ほど放っておいた指にささっていた棘を抜いた。もちろんわざとではない、何度か取ろうとしたが抜けなかったのだ。小さなモノであってもカラダの中に異物が入っている、しかも日常よく見えてしまうような場所に…という状態はあまり気持ちのよいものではないが、あの手この手を尽くしても取れないのだから仕方なし、とあきらめてこの件については「なかったこと」にして一旦忘れた。幸いカラダは痛みには徐々に慣れるし、そんなモノでのっぴきならない事態になるとも思えないから放っておいた。が、その後も人差し指の第一関節あたりにとどまる小さな黒い点はときたまその存在をささやかにアピールし続ける。しかしそれはすでにかさぶたのようなもので、もしかしたらすでに取れてるかもとも思おうとしたが、ナニかがそこに触れればささやかな痛みは感じるし、何よりその周辺が赤く膨らんできて確実に異物がソコにあることを主張し始めたので、結局「なかったこと」を撤回し「ありつづけている」ことを素直に認め、ある風呂上がりの晩、僕はふやけた指に剣先のついたようなピンセットを強引にねじ込んでブツを引きずり出した。2mmほどの小さな棘が取れた。

2週間共存した小さなブツをテッシュの上においてしばし感慨深く眺めつつ、ココロにもこういうのってあるかもなーなんてふと…さ…。

wander TOKYO – 8

主たる目的を果たしたぼくらは、すでにさしたる目的もなくあとは上野恩賜公園をブラブラするばかり。周知のごとく美術・博物館が多くある場所なのでいまさらとも思いがちだが、実はあまり知られていないスポットもいくつか。そのひとつが上野東照宮。徳川家康を神格化して奉ってある場所で日光は有名だがこんなとこにもあるんですねぇ。狩野探幽の障壁画などがあるそうですが今回はパスして、今はお顔だけになってしまった上野大仏がある小山に。こちらの胴体は戦時中に軍需供出され南の海に沈んだとか。興福寺仏頭といい受難の鋳造仏の多いこと。咲きかけの彼岸花などながめながら不忍池方面へ。

一言で不忍池といっても池は大きく3つに分かれ、一面蓮だらけの蓮池とボートを漕ぎながらいちゃいちゃするボート池、鵜の池とある。蓮池のハスの花はすでに盛りを過ぎていたが、広大な池は水面がほとんど見えないほどにその葉でうめつくされていた。芸の神様がいらっしゃる弁天堂はすでに夕刻となり扉がしまわれていたので外からお参り。そのまま八角堂の脇をボート池方面に進み谷中七福神の裏手を右に折れると小さな島がある。あまり知られていない場所だと思うがちょっとあやしスポットかな、興味のある方は行ってみて。

その後、都会では珍しくスズメを餌付けしてる親子を目撃したり、いちゃいちゃボートを眺めたりしつつ、さすがにだらだら歩くのが疲れてきたので御徒町方面にぬけ、街の雰囲気も時間的にも普通ならさてイッパイやりますか…てとこなのだが先生は飲めないのでオッサンらは甘味処凮月堂をめざしふたりで仲良く抹茶あんみつなどをたのんで語らうのであった。

かえりぎわ凮月堂のおねえさんに拾ってきたトチの実をプレゼントして、こんな感じでやっと僕らの一日はおしまい。

あ〜レーポト長すぎ!