Jin Nakamura log

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晩冬の句

「しんしんと雪の音なりオノマトペ」
日本語は擬声語・擬態語の意のオノマトペがとても豊かな言語であるらしいですね。このフランス語の「オノマトペ」という語感自体も前から好きでつかってみました。「しんしんと」なんて僕ら日本人にとってはあたりまえすぎるような雪の降り積もる音ですが、素敵な表現ですよねぇ。
「底なしの 青空昼月 寒鴉かな」
冬の晴れてはいるんだけどちょっとくぐもったような青空に白い残像のような月、それを横切る鴉。ちょっとシュールな印象でした。主宰より「季重なり」というルール違反(昼の月(秋)と寒鴉(冬))を事前に指摘されておりましたが、考えてみたものの他にどうにも言いようがなく、おめこぼしを〜ということでそまま投句ということにさせていただきました。
「雪と青遠近法の道をゆく」
いつもの散歩ネタで恐縮ですが、僕の散歩コース・レタス畑は広大に土地が整理・区画されてるので冬の晴れた日などは浅間山に向かってまさに遠近法のごとく白い道が続きます。都内下町あたりの路地から路地へ抜ける散歩道も好きですが、思わず深呼吸したくなるような風景を歩くのも好きです。

定例会議

油やプロジェクト定例会議。本拠地追分宿はただ今電線地中化等の諸工事が観光オフシーズンということもあって、今しかないという壮絶な勢いで進行中のため近づくこと能わず、また同メンバー多一氏宅は先日の雨で、自宅周辺の融雪が尋常ではないということで、これも近付き難しのため今回はnakamura-keでの開催。設計図面もできてきていよいよ第二期工事も本格化の兆し。冬の軽井沢はこうして夏のお客様を迎えるために人知れずうごいてるわけです。今日の主な議題はweb サイト編集+テナント募集などについて。*それにしても我が仕事場の雑然としたこと、俯瞰してみると少しあきれる…。写真下は設計図面の一部(セミーノデザイン一級建築士事務所)と改装中の僕の担当するアートスペース現状…二部屋ぶち抜きました。

books

今朝の仕事場の室温は−2℃…それがそのまま本日屋外の最高気温となった。ホントはやく暖かくなってほしいものだ。最近の本:「両性具有の美」/白州正子、「親鸞(上・下)」/五木寛之、「中陰の花」・「アミターバ 無量光明」/玄侑宗久。最近のiTunes stor download:「リンダリンダ」/夏木マリ、「あの鐘を鳴らすのはあなた」「タイガー&ドラゴン」クレイジーケンバンド…それ以外にも他人に言えないヒミツの曲もダウンロードしたりしてる。それはそうと、ふと振り返ると意識したわけではないが、この1〜2年お坊さんの本、結構読んでる。別になにかのっぴきならないオモタイ理由があったわけではない。そういえば仏画(のようなモノ)を描き始めたことについても、何か大変なことがあったのでは…と訝るムキもあったが、これも別にそういうことではない。描こうと思った“きっかけ”に出合えたことはそれ自体個人的には大変なコトだったのだとは思うが、それもたぶん昨日までぜんぜん乗れなかった自転車にある日突然ふとした拍子に乗れてしまった…というような感覚にすぎないので心配には及ばない。

さてお坊さんの本だが、空海に始まり西行、日蓮ときて最近のブームに乗っかって親鸞…という流れ。次はシブいところで一遍上人(信州に縁があった人らしく、昨年映画製作のため善光寺にて主演のウド鈴木氏らのロケがあった)あたりをと思っている。当然それらは膨大な歴史的資料を元に作者の感性を織り交ぜて構築されたエピソードであるから話半分にと思って読み始めるのだが、それにしても興味深いのは、いずれもまだ何も成し遂げられずにいる彼らの生々しい未熟さが描かれていく場面。かの歴史的な賢者たちもみんな若き日に悩みと不安の渦中にもがいていたというあたりまえの事実に触れる時、宗派・宗旨を超えて何かしら感じるものはあるものだね。いずれにしても当時ほとんどが新興宗教だったはずの鎌倉仏教は興味深い。

余談だが、「親鸞」は越後流浪以後の話が続編「親鸞・激動編」として刊行されているので図書館でリクエスト。“鸞”の字が書けず、カードに「親らん・激動編」と子どもみたいに書き「スミマセン…漢字書けなくて…」とちょっと恥ずかしげに図書館のおネエさんに提出しのだが、きわめて事務的に受け取って処理。このおネエさんは以前「鴨川モルホーありますか?」とリクエストしたときも「ホルモーですね…」とはやり事務的に顔色ひとつ変えずに訂正して対応してくれたものだ。

初冬の句

初冬の句会。ナカムラの投句は以下三句です。

「さむ風に てぶくろの中 にぎるゆび」

「漆葉の 朽ちて深紅は 過去世こと」

「冬蠅の 傍若無人に 振る舞える」

いきなり解説を添えるのは野暮というもの。ネタばらしは後日1週間後くらいに。覚えていたら…

女性5名+男性2名のネット句会なのです。住まうところも遠く離れ、なので季節の感じ方もさまざま。詠み人の暮らす風景など想像をしながらメールで送られてくる17文字を読み解くのは楽しくもあり、ちょっとだけスリルもありますね。「想像する」というと聞こえはいいですが時として「妄想する」とも言えなくもない。もしかして本人にはまったくそんな気はなく詠んだ句にも妙な艶っぽさを感じてみたりして。半分くらいの人はお顔も知らないのに当句会の主宰のご縁でつながってるわけで、そんな方々にたった17文字とはいえココロの内を吐露する言霊を送るわけですからちょっと不思議な気分です。「俳句」という言語でつながる日本的でマニアアックで最小単位のSNSってところでしょうか。

日常

本来ならば1つのプロジェクトなどのめどが立てば一段落して、なんとなくフヌケた日常が戻って来たりするのだろうが今年に入ってなかなかそういったメリハリがみあたらない日々が続く。非日常と日常の区別がつかずなんか夢うつつの中をフワフワ漂ってるようで危険きわまりない。“旅を住処とす”というほどの放浪者でもないが、アートなんかをネタに右往左往してることには変わりはないようだ。そんな普通の日々を取り戻すためになるかどうか…何げない日々を言葉に切り取ってみる俳句なんかはやはりよいかもと思うのです。そんなわけで晩秋の句会、僕の投句は以下3句。今回はネタばらしも含めて。

「毬栗をけとばしてゆけ散歩みち」

今年は我が家の裏の山栗もナリがよく、肩を痛めた母がリハビリがてらがんばって拾ってきては皮を剥き、現在かなりの量の渋皮煮などが冷蔵庫に保存されています。揚句は散歩道で僕のした行為そのものです。ヤツらは素手で拾ったりするとホントに痛い。でも靴を履いていたらおもいっきり蹴飛ばしてもへっちゃらです。けっこう気持ちいいです。皆さん今度やってみてください(すでにやってる方もいらっしゃるようですが)。サッカー好きならみんなやるんじゃないかな…世界中で愛されているサッカーはたぶんそんなところから始まったんだと思います。ま、毬栗はけとばさないにしても石ころとかココナッツとか…地域によっていろいろね。

「冬隣り達観しているキミはねこ」

写真や絵画のモチーフなどでも猫だしてきちゃズルイでしょってのありますよね。わかってはいるんですがつい…。彼らはぜったい自分などよりオトナだと思います。でも猫になりたいとは思いません。もうしばらくは達観できないガキっぽい人間でがんばってみるつもりです。だけどそばにはいてほしいかな…。

「プリズムの赤を集めてアキアカネ」

夕焼けがなぜ赤やオレンジなのかという問いに対して、光の波長の説明にプリズムが使われてたような気がします。太陽が南中にある時より東西に傾いている時の方が若干自分からの距離が遠くなる(図で示すとわかりやすいんですが)ので波長の長い赤系の色のみが届くということです。アカネ色に染まる秋の夕空は美しいものです。でも空気がよごれていた方が実際にはより赤が映え、都会の夕焼けの方がきれいということになります。ということで元々は秋の夕焼けから連想した句でしたが、たしか他にも赤いモノあったよな…と、この時期我が家の周りで大量にブンブンしているアキアカネにその色をだぶらせて登場いただきました。でも実際にプリズム越しに赤とんぼをながめてみるのもいいかも。

夏の界隈

開催中の個展「海幸山幸ぐらふぃかる。」、地元長野で久しぶりということもあってか2日のオープニングパーティーは、お暑い中ホントたくさんの方々に来場いただき有り難いかぎり。この場をかりて御礼申し上げます。

さて会場のFLAT FILEは定額山善光寺門前界隈、表参道をはさんで西側の路地にある。南北に走る小道には夕方になると向かいの味噌蔵の土壁を伝ってまったりとした涼風が吹き抜ける。この界隈は最近30代くらいの若い世代がこうしたアートスペースや本屋、カフェなど古い建物などをリノベーションしながら門前という古風な土地柄のなかで新しい文化を醸し始めている。特に「電子書籍」が話題の昨今にあって個人書店が同時期に3件もオープンした。活字・紙モノ大好き、デジタル(使うけど)そんなに好きじゃない…人間にとってはうれしいニュース。そのうちの1件「ひふみよ」。古書+カフェ。1Fの古書をもちこんで2Fのお座敷カフェでお茶できます。夏(梅雨開けしてないけど…)の午後アッシュアールのオーナーIさんに連れられて。彼女はオーガニックビール、僕は車なので氷たっぷりのジンジャーエール。涼は扇風機、エアコンなし。昔の夏ってこんな感じだったかも…。そうそう実は「ひふみよ」さん、境内アートにも「一箱古本市」で出展されてたんですね。その節はどうもでした!

煎茶会

黄檗山萬福寺を本山とする煎茶道。その茶会が過日ホテルニューオータニで催され、僕も例の立礼台を描いたご縁で末席を得る。抹茶にしても煎茶にしても何度かいただいたことはあるものの、ちゃんとお稽古などしたこともなく毎度不作法にて恐縮であるが、それにしてもたかが喫茶にこれほどの想いの形を込めてしまった日本人の感覚は特異であり実に興味深い。お道具や周到に研鑽を積まれた所作などネタに、正客と席主の間でかわれる会話は芝居のようでありセッションのようでもありなかなかスリリングなのだが、ベースには相手の気持ちを思い計る優しさをいたく感ずるものである。今回は描かれた鳳凰にちなんでグラビュール作家の花岡和夫氏がガラスの羽の結界を用意してくれていた。