Jin Nakamura log

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hay fever

本年度秋のアレルゲン許容値を一昨日越えたらしく、夜中に鼻水とくしゃみが止まらなくなり朦朧とした思考のまま合法ドラッグに手をだす。結果症状は治まってはいるものの眠気、思考・集中力の低下といった副作用が著しい。興奮状態とは逆の作用をもたらすので、なんかこう一日ボー…っとした空気感のなかを漂ってる感じで、その愚鈍な感じがすべての外的刺激から解き放たれたようで心地よくさえ思える。それは感覚としては非日常的でちょっと面白いんだけれど、当然薬物がもたらす不自然な感覚なので、以後はマスクなどを使用してできるだけ控えようと思う。

 

遊学座

場所を構えてココにくる人たちを見ていて思うには、
artってたとえば妖怪や幽霊やUFOの類いといっしょなんだと。
見えるひとには見える、見えないひとにはみえない…。

絵が描けるとか描けないとか、
うまいとかヘタとか、そういうことじゃないんだよ。

さて、遊学座ワークショップ「エッチングによる銅版画講座」(講師◎吉村正美)今回も楽しゅうございました。

*来週8/31(土)は「リトグラフ版画講座」(講師◎近藤英樹)です。

不思議な世界に出会いたい方は油やにお出かけを。

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Our religion

宗教について考えていたらコンビニで雑誌/一個人「日本の新宗教入門」をみつけた。70年代のオカルトブームが去り、そのあげくのオウム事件以来さらに新興宗教アレルギーが続くご時世でこの企画は受け入れられるのかいな…と思いつつ、個人的にはちょっとタイムリーだったのでパラ見。思えば今に続く伝統宗教もそのほとんどは、日本的霊性が高まった鎌倉期に興った新興宗教だったわけだ。平安末期ほどではないにしろ2年前の大震災直後より多くの日本人は心に傷を負い(あるいは共有し)、そこからなんとか立ち上がらんと生き抜くための支えを求めんとするならば宗教というものの本来の役割を果たすまさにその機会であったかもしれない。そういう意味で800年ほどの時を越えて僕らは同時代を生きているかのような錯覚さえも覚える。
さて、件の「新宗教」であるが自分が教祖になる(冗談ですよ)のならまだしも、そもそも特定の集団に帰属することをできることなら避けたい僕はおそらく今も今後も組織的宗教に入信ということはまずあり得ないと思うが、こういった文章をまとめているように神とは何か、仏性はあるか…などと個人の感性としては考えなくもない…ていうか考える。とにかくコトが事だけに如何にカリスマな方とても、言われたら「ハイそうですか。」とはすぐには納得するわけにはいかないのである…鵜呑みにはしないが、無視もしないという一応リベラルな対応を心がける。「一人宗教」というわけだ。余談だが画家とはそういもんだよと師には言われている。つまるところ個人の「魂の枯渇」は重要なのだ。
以下引用するー「そもそも自分が表明しようとしている活動が宗教であると自覚するかしないかは、ほんの紙一重の問題にあることが多い。なぜなら、宗教は本来コミュニケーションの問題に属する活動で、自分が気がついた問題が哲学であるとおもうか、仕事の充実に帰属するとおもうのか、あるいはパートナーとの出会いを求めることとおもうかは、一にコミュニケーターとしての自分の些細なかかわりの変化によっている…」(松岡正剛)。たとえば企業組織と新宗教組織とはどこがちうか考えてみればよい。最終目標として経済的利益を求めるか癒しのシステムの実現を求めるかの違い。そしてその実現の方法は極めて似ているし、もしかしたら結果もそう大きな違いはないのかもしれない。「経済」の話をソコに持ち込むのはそう悪い事でもないと思っている。例えばアートや政治においてもそうだが、この手のテーマにマネージメントの話を公にする事にそもそもアレルギーを持ち過ぎなのだ。しかしその上で宗教が信仰そのものであり続ける事は至難の業であろうな。だからこそ宗教がその哲学を律して今日も明日も元気であろうとしてほしいのだ。当然伝統宗教もまた、というかそれ以上にその問題に大きく直面していることを自覚すべきだろうと思う。僕は人としてはオモシロイお坊さんの幾人かは知っているが未だ宗教者として尊敬できるお坊さんには出会っていない。もちろんそれはこちらに今だ出会う準備が整わぬが故かもだが。いつか門前のアート小僧の戯言にいくばくかの指針を示してくれる仏教者に真に出会いたいものだ。

memo

油や社員食堂(実際にはありません)での会話から…。
例えば小学校でもっと教えてほしいこと。「経済」「法律」「宗教」
いろんなことに妙なアレルギー持たないで
ポジティブに、生き抜くために。
本来はそれぞれそう言うものなんだ。

debut song

以前にもあったがしばらくblog放っとくと(FBはちょくちょくupしてたんだけど)本人死亡説とまではいかないまでも入院説とか一部からもれ聞こえてきたりするんだ。確かにこの夏は過酷ではあったかもしれない…が、しかし、我が住まうところは山麓ですよ。標高1000M近い避暑地ですよ。真夏にココより快適な場所などおそらく北海道あたりを除いてはまずないでしょう。そんなところで体調を崩す理由はとりあえずなく、あるとすれば夏のバカンスとか称してのこのこ下界の観光地などに遠出しては、慣れない暑さにやられ疲れ果てて帰ってくる…てなパターンのみ。というわけで夏場はなるべく所定の標高を維持し、移動も高低差100M程度と決めております、のでまあまあ元気にくらしているというわけです。以上近況報告まで。

さてThe Bon festivalを期にちょっと宗教について考えてみる、2回目。
我が島国は地球規模でみてもとても自然が豊かな国だからそういったモノからスピリチャルな影響を多分に受ける感性が古来から強い。宗教もいつしかそういった土壌のうえに多くのファンタジーを視覚可したきたように思われる。結果、いつしか日本人は浄土や地獄をリアルに思い描きそして気にするようになった。ではなんでそうした現世という生きてる「今」ではない世界=死後の世界を気にし出し、またそれが仏教的イメージとして一元化されるようになったかというとやはり浄土教系の影響が非常に大きいのだろうな(逆にいうと他の宗派には本来そうしたイメージからは遠いところにあったはずだが…実際には江戸期の檀家政策以後現在に至るまでにやはりその一元化が進み過ぎた観がある)。
平安末期、時は末法の世。混乱した社会のなかで人々は貧困・飢餓・疫病などの尋常ではない苦悩にみまわれていたころ、その時代に育った法然を祖師とする系譜からスパースター親鸞がいずれ浄土真宗を興し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし、易行念仏による救済を広めた。阿弥陀仏は西方浄土(人にとっては現世ではない死後の世界)にいる如来格の仏である。この宗派の大きな特徴はネガティヴな表現をすればスタートラインとして、生き抜くにあまりに過酷すぎる今をあきらめるというポイントにある。現世をあきらめて来世(死後の世界)で浄土に導かれ阿弥陀仏に救われよう…という解釈だ。そしてそこへの到達方法として念仏(ナムアミダブツ)という7語称名を唱えるだけという画期的なメソッドを打ち立てた。国家宗教から個人の救いへ。難解から平易へ。民衆の賛同を得られぬわけがない。一切の哲学が排除され、死と引換えではあるものの、まさにある意味命がけの救済という利益がしぼられて非常にわかり易い。
改めて本来の仏教について思いをめぐらせば功罪はあると思う。が、それはともかく必要な時代であったのだろうな。現代、如何に生きにくい世の中といっても「♪僕は食うことに困ったことなどない…し、マシンガンを打ったことなどない…」(by 斎藤和義/僕の見たビートルズはTVの中)だもの。

で、まだつづく…

The Bon festival

祖霊が帰る夏は終わった。正確な起源はあいまいながらも、一応盂蘭盆会に由来するとされるこのちょっとファンタジーな仏教的行事は今や大切な日本の風物詩となっているものの、それはなんとなくサンタクロースの実在を信じ、クリスマスケーキを楽しみとする習慣とさほどかわらぬ宗教観の希薄さを感じないでもない。図らずも今生の別れをとげてしまった愛する人らとの再会がかなうのらばそりゃあうれしい…うれしいが、そういうことだったのか「仏教」とも思う。

いかにも「仏教」と「死」のイメージは近い。刑事ドラマでは殺害された遺体のことを「ホトケさん」なんて言うし、「戒名」だって死んだ人がもらう名前だと普通はそう思うが、そもそもそんなもんお金で買うもんでもないっしょ。お経だって例えば有名な般若心経などあの276文字の中に死者を成仏させるような呪文は一切入ってない。宇宙的で魅力的な哲学書のはずなのにフツーにお葬式で読まれたりしているのは何故だ? お弔いの気持ちを揶揄しているのではない。そうした気持ちに寄りかかる奇妙な宗教観について考えているわけさ。…to be continued

あ、そういうわけで一ヶ月近く放っといたblog再開します。