Jin Nakamura log

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影響

ここにきて今回の震災の及ぼす影響は深刻なボディーブローのように、自分のまわりでも気がつくとじわじわと身の回りにしみ出してくるような気配がある。被災地の壊滅的、直接的なダメージとはまた別物の社会全体を包み込むようななにか…。Michael Ende「はてしない物語」で語られる物語り世界ファンタージエンを崩壊に導く“虚無”をなんとなく連想させる。この作者は「モモ」の中でも架空の病気として、慢性的な空虚感、抑鬱気分、絶望感、感情不安定…という精神的症状を発症する「致死的退屈症」を登場させている。現代社会を押し包む“虚無”や“空虚感”になんとか抗おうとする作者のメッセージがそうした仮想を生むのだろう。発生から3週間。急性期は張りつめた気持ちで走り続けられてもいずれ疲弊は免れず。目に見えない不安感(将来のこととか放射能汚染とか)との持久戦は予想以上にハードなものとなりそうだ。

Endeのお話では、いずれの物語りでも普段あまり社会のお役に立ちそうもない輩が思いがけず事態を打開していくわけだが、僕らにもこうしたポジティブな未来を“妄想”する想像力が問われているのかもしれない。アートという生業が「太ったいじめられっ子」や「家を持たないあまり働かない少女」のかわりになれるかどうか…、でも多分必要。せっかくだからそういう社会にしていきたいと思う。エネルギーの問題も考えながらね。そして希望はあると思うのです。

Zen

「禅」はあたりまえだが本来怠け者体質の我が身には荷が重く、夏場、背中のバックプリントにカリグラフィーにて“禅”と描かれたTシャツなど身にまとい悦に入っているくらいがちょうど良い。ただ難解で魅力的な思想であることは間違いなくSAMURAIや茶人ではなくとも欧米人などが科学や智の大系ではおよそ説明のつかないこの東洋の不可思議なテーマに食い付くのは全く理解できる。故にこの件については中途半端な知識ほどその障害になることはまちがいなさそうだ…ということは少しわかったので以後言葉はできるだけ感じながら読み進めることとする。なにより途中々に出現する高名な祖師たちの漢文や候文等は内容の理解の上では大きな障害なのだが、「漢字」はただながめているとなんとなく意味が伝わってくるような気がしないでもない。ま、そんな気がするだけかもだが…。

Buddhism-2

世界中であまねく信仰されている他の宗教と大きく異なる点の一つは仏陀が普通の人間だったということだろか。彼は何の予言もしていないし、海を分けて道を作ることもしていない。王家の息子ではあったがちゃんと人間のお父さんとお母さんの普通の行為の末生まれている。もちろん神ではないのでハデな奇跡は一切起こしていないのだ(弟子の中には超能力者はいたようだが)。ただただ普通に悩んで闇雲に修行をして、それでもだめだめで、やり方変えようと思ってふとチカラが抜けたところ菩提樹の下で悟りを開いたわけでしょ(見てきたわけじゃないけど…)。しかも開いた悟りは「一切皆苦」。この世は苦しい…じゃ、どうすんのってわけで、その後彼の弟子たちが仏陀の口伝を途方もない年月を重ねて整理・解釈を連綿と続けた結果が現代の多様なBuddhismにつながる。偶像作るな、葬式すんな…。僕らが今のお寺さんから受けるイメージとは大きくかけ離れた原石の姿も興味深いが、その後の人たちが様々な想いで思考した大系もまたすばらしいと思う。要は神の言葉ではなくとことん人が創ったということである。その辺が魅力かな。それはそうと、後の人たちが師の教えを無視して偶像崇拝に手を染めてくれちゃってよかったかも…。それだけ仏陀の面影を伝えたかったのかね。このあたりのエピソードも人間ぽい。(まだ続く…かも)

Buddhism

いい機会だからこれからしばらくBuddhismにハマることにする。とは言ってもこの件については波があり10代の頃に「ちょっとカッコよさげ…」という理由で密教と空海に興味を持った第1次マイブーム以来、概ね第4次くらいってとこかな。入口はなんといっても仏教美術。教義云々よりもそのビジュアル世界にまず引き込まれるわけだが、もともと言ってもわからぬ凡夫(おバカさんてこと)にその世界観を感覚的に納得させる有効な手段としてあったわけであろうから別に動機としてはけして不純ではないと心得る。

たまたま今回の震災以前から哲学者・梅原猛「日本仏教をゆく」を読み進めていたが、その中で聖徳太子以来先人の宗教者たちはそもそも学んだ先の中国や朝鮮諸国と比べても突出して多くの宗派分派を創り多様な方法論で「どう生きるか」を模索し続けてきたかを知るに至る。一定の伝統を有するものだけでも十三宗五十六派というから驚きだ(キリスト教もそのくらいあるのかな? カトリックとプロテスタントくらいしか知らないが…)。ただ残念なことにそのほとんどが江戸時代の檀家制度と明治の廃仏毀釈で壊滅的なダメージを受け、本来のポジティブシンキングな機能をほとんど失いかけている感は否めない。もちろん祖先を供養する気持ちは大切であるし、そこを否定する気もないが今回のような現代の末法の如き人智では如何ともしがたい事態に直面した時、やはり今を生きる人々の指針となってほしいものだ。星座占いでも高価な壷でもなく、そんなことで右往左往するのではなくてさ。さて今日から名著とされている英文対訳(もちろん日本語だけ読む)『禅と日本文化』鈴木大拙に挑戦。近代の宗教家の本は初めて。(to be continued.)

Anpanman

話題のアンパンマンマーチは僕もたまたま車のラジオで聴いていた。平時ならどうという事もない唄なのかもしれないが、この超ポジティブソングに暗い夜道を走りながら不覚にも目を潤ませてしまった(単に加齢にともなう涙腺の弱さを露呈したにすぎないかもだが…)。ネガティブな話題は一切記すまいと始めた当logだが、さすがに限界あるでしょ…っていう日々が続く。仏教でいうところの「無常」とはこういうことかとも思う。「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか こたえられない なんて そんなのは いやだ!」こどもにわかりやすそうな歌詞にも聞こえるが確かに多分に哲学的にもとれる。3才のこどもでもわかるが80才の老人でも実行する事は難しい…。それが釈迦の悟りだという。まだまだ為すべき事はたくさんありそうだし、また努力も足りないようだ。少しづつでも前にすすもう。とりあえずアンパンマンマーチはiTunes Storeからダウンロード。

top page

トップページ画像を一時期差し替えることにした。タイトルは「命字系」とする。

1960年代に一世を風靡したフォークグループ・フォーククルセイダーズが2002年に再結成された際にリリースしたアルバム「戦争と平和」の1曲目に「芸術家,科学者,そして宗教家」が収録されている。政治の無力さを認識し、まさに今こそ芸術・科学・宗教のチカラでこの地球をなんとかしていこう!…といういかにも彼ららしいメッセージソング。芸術の力については己という尺度で振り返れば甚だ心もとないが、やはり今だからこそ科学と宗教の潜在力を信じたい。人が招いた禍はやはり人がその責任をとって乗り越えていかなければならないのだろうし、それでも越えられない自然、あるいは超自然的な試練には己の能力を過信せず奢らず謙虚に自分のココロが寄り添える何かを信じる気持ちも必要だろう。そうした何かにココロのチャンネルが合ったときに奇跡は起こるのかもしれないし、またそんなに都合良く奇跡は起こらないにしても、たぶん気持ちは落ちくつ。そしたら次に何を為せば良いかのヒントくらいは見つかるかもしれない。必死に考えて心から信じてみたい。

その後、これから。

当日はたまたま打ち合せのため板東氏のFURONEKO ART HOUSEに向かう途中であった。上野駅到着寸前の山手線の中で異様な揺れを感じながらホームに滑り込み、ドアが開き降りた瞬間にそれが人為的なものとは全く無関係な恐ろしい力によるものだと実感した。以後都内の電車は数時間にわたり機能を失い、途方もない人数の人々が自分がいる現場からの徒歩以外の移動手段を失うことになる。幸い自分は目的地までの道程は心得ていたし、もちろん情報がなかったので事の深刻さも理解しないまま上野公園から芸大前、谷中界隈を抜けて板東宅へ向かったわけだが、街角の公園で身を寄せ合う不安げな表情の人々、店の中がぐちゃぐちゃになって呆然と座り込む店主、崩れた寺町の土壁…など歩き進むにつれて先ほどの揺れが残した爪痕が少しづつ肌で感じられ、いやな予感がつのっていった。結局この日、ギャラリー猫町のスタッフ+展示会期中の作家の方々らとともにそれぞれ家族知人の情報等を気にかけながら、また断続的な余震が続く中、不安な一夜を共にすることとなったが、遠く離れた地で現実に起きている信じられないような映像がTVから流れ続けるのを見るにつけ事態の深刻さをあらためて認識するに至る。その日のlogは全く通じない携帯電話・メールをあきらめて、比較的つながり易かったネット(ツイッターも役に立った)を利用しようと、板東氏宅のノートパソコンから自分のサイトにアクセスさせてもらって残したもの。ことが済んだら消去するつもりだったが、その日を忘れないために記録として残すことにする。一夜明け都内のメトロ等は概ね復旧したものの、長距離列車が東海道新幹線以外まったく機能せず、結局12日も夕方近くまで都内に足止め。その後ありがたいことに軽井沢方面に移動する板東氏の車に同乗させていただいて(上信越道方面は高速が通行可能だったので)20:00前後に帰宅となった。長野も北部県境にて誘発された地震のこともあり、ご心配をいただきましたがなんとか無事に落ち着いております。今回お世話になった方々にあらためて感謝申し上げますとともに被災された地域の一日でも早い復興を願うばかりです。いろいろな意味で、その後、これから…を考えてみたい。

Feb. to Mar.

まったくもうみんなムチャぶりなんだから…て感じな怒濤の2月は過ぎて弥生三月もすでに6日。実はつい最近まで“肩こり”とう痛みをほとんど知らなかったが、今回はひどい。人生2度目の針治療を施してもらい多少は改善したが完治はまだ先になりそうだ。原因は単純にパソコンの前に座りっぱなし…ということだけではなく、やはりカラダとキモチの内面からきているものらしい。以前のように同時にたくさんのことをこなせなくなってきてるのね。ま、そういう自分に向き合って何を為すのかマジに考える時期なのだとも思う。いろいろなことができないのだったら何か1つのことをすればいいのでしょ。もっとシンプルでいいのかもしれない。さて上記の理由で今日までの神奈川県立金沢文庫80年 特別展「運 慶」-中世密教と鎌倉幕府-は時間がまったくとれず、とっても残念だったが見逃してしまった。運ちゃんにはまた別な機会、別な場所で会うことにしよう。かわりに20代前半のくせに御朱印帖蒐集が趣味のパン職人の長男が「よかったぜ〜」と現場文庫前からTELあり。オリジナル図録をGETしといたとのことなのでせめてもの楽しみとしたい。

gobusata

少々ご無沙汰してしまった理由は正月早々、己の不徳の致すところ故のプチ手術。あくまでもプチなので通院してなんとかやり過ごしている。これがまた入院とかになれば覚悟が決まってもうオヤスミ〜ってなるんだろうけど実に中途半端である。寝込むほどでもないが、それなりに痛みもあり、かといってもらってある痛み止めの錠剤はできるだけ飲みたくないし…(倦怠感がヒドイのだ)。とにかく動きが緩慢で新年の意気込みも大幅に萎え、当然予定もくるう。ま、ボチボチいきなさいってことなのね。で、それでもこうしてようやくなんとかblogをしるす気分になってきたところ。そういえば年末に読んでた桜庭一樹の「赤×ピンク」。非合法ガールズファイトが題材だがセコンドが「No pain !」て叫ぶけど、格闘の人ってどう痛みを処理してるんだろか。「体の痛みを心の筋肉に変えて…」てコピーはかっこいいけど痛いものはイタイでしょ!ガールズのX遺伝子の機微や格闘技のことはよくわかんないね。

大晦日

今日になってやっと書き上げられ、ゴムでくくられた年賀状の束は郵便ポストの口に入らず、四苦八苦していると近くの郵便車で待機していたオジサンが見かねて直接引き取ってくれた。結局最後までいろんな人に世話になりっぱなしで、それでもなお様々な懸案をかかえたままで、あと数分後に新しい年を迎えようとしている。当たり前だが大晦日で全てがリセットされるわけでもないのだが、まあとりあえず“ひと区切り”というのも大事。深呼吸をしてまたスタートラインに立ちましょうか。そんなわけで皆さん良いお年を!