Jin Nakamura log

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OSSAN-HARAYAMA-2

だれだソレって話しでしょうが、いいんです。いつの世もホンモノがTVなどのメジャーなメディアで羽振りをきかせてる有名人であるとはかぎらない。無名の中にこそびっくりするような能力が隠れていたりするもの。

ま、それはさておき続けます。

図らずもOSSAN-HARAYAMAの展覧会(あ、ちなみに本人は情報によると3年前にちがう世界にいっちゃってるので本展は回顧展です)ポスターに出会った僕は、これはもう来い…言われてるとしか思えなかったので、すかさず会場を確認すると「ギャラリー鬼無里」とある。県外のみなさん鬼無里(きなさ)をご存知か。小説にでも出てきそうな名前であるが、長野県北部裾花川源流、戸隠連峰の西南辺りに位置し長野市側からここを抜けると白馬方面に通づる実際にある地名。飛鳥時代に鬼無里に遷都の計画があったとされる伝承や、鬼無里盆地がかつて湖だったとする伝承、鬼女紅葉伝説などが存在し、実際に伝説にちなむ「東京(ひがしきょう)」「西京(にしきょう)」などの集落がある不思議な場所なのだ。で、会はそこで開かれているという。長野市街から1時間弱はかかろうか…が、まあいい。当日はうっすら春の雪日となったがさすがに道は凍るまいと裾花川沿いR406を長野市から彼の片鱗に会いに西へ進む。

会場は彼がアートディレクションを手がけたクライアントの一つ「いろは堂」。長野のローカルフード「おやき」の専門店に併設されたギャラリーにて。さすがに季節柄積もる気配はないが、そうは言っても断続的に雪は降りつづく山間地。予想した通り観覧者は僕一人ひとり占め。デザイン関係の制作資料は著作権の関係からかその全貌をみるには程遠い展示内容だったが、かれがまだADとして活躍する以前のおそらく30代…すなわち僕が彼の事務所に入り浸っていた頃と同世代…の仕事のいくつかが展示されていて興味深かった。

なかでも信濃三十三番札所巡りを題材にした「同行二人」…そういえばこの本の存在をもう何年も前に知って、手に入れようとしたものの既に絶版…ていうか出版社そのものが倒産していて手に入らなかったソレがそこにあった。昭和の憂鬱を引きずったようなモノトーンの挿画はある種時代的なノスタルジーの流行を垣間見せもするが、なかなかの完成度なり。共著であり文章とまた良く響きあっている。こうして実際に手に取ってみると改めて所有欲が沸きあがり、古書検索すればいいじゃん、と後日ネット検索するとすぐに見つかり、しかも長野市内の古書店に1冊発見。こうして数年前にあきらめていた本があっさり手に入った。しかも今展で初めて目にしたやはり彼の同時代の「野沢の火祭り」を題材にした木版画作品シリーズ1セット15枚を、これもダメもとで古書店のおじさんに聞いてみると「あったかも…」と奥からゴソゴソ取り出してくる…という始末。

不思議なものだ。必要なものは必要なときにちゃんと現れることになってるらしい。

ま、とはいっても今回の時空を超えた邂逅にどのような意味があるのかは未だ不明…だが少なくとも何かしらのココロのざわつきを残して春の雪は解けてゆくような…。

*掲載写真中段は原山氏制作による「同行二人」のおそらく販促用ポスター。

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OSSAN

OSSAN…僕のことではない。無論この年齢なので自分がオッサンであることは否定しないが、「OSSAN」は僕の尊敬したアートディレクターでありアーティスト原山尚久氏が自らに与えた称号だ。五芒星の周囲にOSSANの5文字を配した落款が晩年の彼の作品に押印されていた。2011年には他界したことになっているが僕はその事実もいきさつも本人から聞いたわけでもない(あたりまえだが)ないのでなんだか全く実感がない。ただ「他界」というからには別の世界に何らかのカタチをもって存在するのだろうから、おそらくそちらの世界においてナニカシラの研鑽を積んでおられるか功績を残しつつあるのかもしれない。

氏には僕が30代手前で無謀にも(あくまで一般社会的にはだが)たかだか3年間の地方公務員を辞職しフリーランスになった頃ずいぶんとお世話になったのだ。掌の趣くままに蝋を捏ねながら動物像などをつくり、それをひたすら金属に置き換える作業(lost wax casiting)に没頭していた当時、生み出された無骨な作品群に「原初」というタイトルと以下のようなコピーを添えて僕のデビュー個展を企画してくれた。

「今から3万年前の信州を記憶しているだろうか。最終氷河期を迎え、日本列島が大陸と続きだったあの頃のことを。大陸から様々な動物たちが、いく人ものヒトと共にツンドラの荒野を移動していた季節を。………「原初」それは思考がからめとる凡庸のイメージではない。美術家は動物の形象の内に自らの原初を発見した。縄文を思わせる銅製の彫刻の姿を借りて。(NAO)

…と。

自分が生み出したモノに言葉が添えられる…という経験がなかった僕はなんどもこの文章を読み返し、おそらく暗記した。

もちろん上記はあくまでも個展DM用の原山氏のコピーであって、当時の僕がそうのような制作意図をもって作っていたわけではない。そうではないが今ほど言葉を持たなかった僕は初めて文字の持つ想像力の可能性を感じたものだ。モノツクリなんだから黙って作れよ、不器用ですから!男は黙ってサッポロビール!!!by  KEN takakura(古!)みたいなんじゃなく。

+

長野市善光寺西側、鬼無里辺りを源流とする裾花川に浸食された孤山「旭山」の麓に妻科という地籍がある。そこに小さな古い土蔵を改装した彼の事務所があった。どこか東京下町の路地裏にありそうな時空が止まったような不思議な異界であった。そんな場所にアヤシイ輩はもちろん、20代の僕なんかがなかなかお行き会いもできないような業界の名士…いわゆるエライヒトなんかも出入りしていたと思う。

仕事を失って(まあ勝手にやめたんだが)アート的プータローとなった僕は(考えてみたら乳飲み子がいたなすでに…)ヒマだし面白いからちょくちょく彼の事務所に遊びに行っていた。栄養ドリンクなどを買い込んで浅はかな気遣いとともに。たぶん仕事の一つももらえるかもという打算もちょっとあったかもしれない。動物というテーマは彫刻だけではなく平面でも描いていて、そのころイラストレーションの登竜門的コンクールでたまたま受賞したのをいいことに彼のきらびやかなアートディレクションの中で使ってはもらえないだろうかと営業をかけると氏曰く「そーだなーナカムラはウシとかウマとか描いてるから信州ハムあたりかな…」と。

販売促進ツールを作り出す歯車の一つとしてのイラストレーションと自らの内発的衝動で描く絵との基本的区別がついていなかった僕は彼のそのつぶやきですべてを悟る。「あ…自分の牛の絵でハムが売れるわけがない…」で、以後無理なお願いは慎むようになる。だが今にして思えば、その時ハムが売れそうなウシの絵を描こうと思わなかった自分がエライ…というか描けなかった自分に感謝…かな。

それでも懲りずにハラヤマ詣ではその後もちょくちょく(なんたってこっちは時間がたっぷり)。常に哲学的風情を醸し出し、アーティストでもあった氏であるが、まっとうにその能力を駆使するかぎり彼は長野ではチョー優秀なアートディレクター(その頃有能なデザイナーは多かったがADのできるヒトはほとんどいなかったと思う)であり、その意味では全くカタギで本来僕なようなヤクザなアート小僧の相手などしてるヒマはなかったはずであるが、行けばそれなりに時間をさいてくれた。もっとも時には大きな作業机の真ん中に立てたお香に火を灯し、この一本が終わるまでね…と長居を制限されたこともあったが「なるほど〜こんな追い返し方もあるものか…」と僕の方はその場で起こるすべてが学びとなってしまう始末。

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さて、数日前に普段ならまったく行く必要も無い長野市のアーケード商店街を歩いていると一枚のポスターが目に留まる「原山尚久展 DESIGN←→ART」。もう何年も忘れていた名であった。先に記した通り今生にいないことは聞いていたので本人が展覧会を開くはずがないので一瞬同性同名かともよぎったが懐かしいカブトムシの絵が印刷されていたのですぐに本人のものと確信はしたが、まさに白昼の商店街で幽霊にでも会った気分である。もちろん悪い気はしない、、し、怖くもない。むしろ懐かしく不思議な気分。ただどれくらいの人たちがこの商店街を日々行き来するか知らないが、おそらくこのポスターの前で足を止めるのは僕だけなんだろうな…と思った。

(思ったより長い文章になったので続きとします)

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霧欝

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遠近法の風景の先に消え行く白い闇…。

イキモノとしてカラダに余分な程の精力に満ちあふれてた思春期の頃ならば、例えばポツポツと陰鬱な呪文のように降り注ぐ雨音にさえ健全な哀愁を感じたりしたものだ。事実僕は10代の頃そういう音を発生する装置を作ったことがある。基盤にダイオードだのトランジスタだのを意味不明な回路にハンダで括り付けイヤホンに出力して聴くのだ。眠れない夜にはオススメの装置だったらしいが、今思うと全く余計なお世話、いかにも変質的な一品にも思える。

体力的にとうにピークを過ぎてるこの身にとって自然界に存在するポジティブな要素ならすべて取り込んでも生き抜いてやる…というほどの覚悟なれば、やはりお天道様の光などはありがたい。必然、小糠雨だの濃霧だの類いは気がめいるだけで no thankyouということになる。昔爺様が毎朝お日様に向かって柏手を打っていた姿を思いだし、そんなことに妙なシンパシーを感じる自分がいとをかし。

先日の雪欝が解消されつつあったところに、このところの若干の気温上昇で雪にならない湿り気は終日深い霧となって山麓にとどまる。しかも未だ解け残った尋常ではない量の残雪が風景をより白闇に落としこんでいる。

…要するに元気がないのだ。

それでもと、気をとりなおして描きかけの「弥勒」のために絵筆をとれば不思議なもので少しだけチカラが湧いてくるような気がする。タマシイとカラダは連動してるのだろうからそうい現象もあるだろうし、もともとアートにはそういう刺激性があるのかもしれない。

なんでそんなものを手に取ったのか思い出せないが「N-ART #アート」という2008年に長野県在住の15名のアーティストをインタビュー形式で紹介した冊子を書棚から引っ張りだし眺めていた。中綴じ冊子なので当然背文字タイトルもないから今日何故それに手をかけたかほんとに不思議なんだが。

副題は「アーティストは長野で食べていけるのか?」とある。まあずいぶんと興味本位というか不躾なテーマであるが、最近はこの業界のメジャーな作家やキュレーターなどもこぞってアートとお金を話題にした本がよく出版されているので、そういう意味では地方発の小冊子だが目のつけ所は悪くなかったのかもな。

インタビューはこんなだ。

Q.今までの作家活動で辛かったことを教えてください。

友人の画家・小山利枝子氏はこんなふうに答えている…「…お金を回していくことは大変だったし、泣いたこともあったけど…その度「嫌だったらやめればいい」と自分に言い放ってきた。…もちろんやめる気になったことは一度もありません。画家の仕事は全部自分のためにやってるわけですから。辛いなんて思ったら罰が当たる。描くのをやめなきゃいけないとしたら辛いけど、やめてないから辛くない、これでいいんです。」

同じく版画家・田島健氏はこの質問に…「あんまりないなー。あ、千葉に住んでるときに、真夏にパンツ一枚で仕事してたら膀胱炎になって苦しかった(笑)。

で、僕ナカムラはなんてこたえたかというと…「ないですね。経済的なことを話しだすときりがないけど、まあそれは別にいい。」

だとさ。特に理由もないのになんとなく沈んだ気分の日、小山さんの言葉に気持ちが奮い立ち、田島くんのつぶやきに笑い、6年前の自分の言葉に「あ、ちっとも変わってねーや…」と落ち着きを取り戻した。これでいいのだ!

最後に長野でこちらも粘り腰で僕ら作家の後押しをし続けてくれている、やはり友人のガレリア表参道オーナー・石川利枝氏はこう結んでいる。

「…表現することを生きる糧にする人は、自分の世界により深く降りていくことでしか、いい表現にはたどり着けない。それがその人にとっての地獄であり天国であって、一人で降りていくしかないんです。疲れたらいっしょに飲んであげるから(笑)頑張って!」

そういうわけなので今度また一緒に飲んでもらうか。

そしてもひとつ、必要なものは必要なときに自分のそばにあることを改めて感じた日。