Jin Nakamura log

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already cured

実は昨年秋から肩を痛めていて、いまは週一くらいでスポーツ医療にも対応している整形クリニックに通っている。レントゲンでも超音波でも特に異常もないのだが痛いものはイタイ。こういう患者には大きな総合病院の整形科は全く興味を示さず、数週間分の膏薬を処方されて適当にあしらわれるが、理学療法士のいる現在のクリニックではわりと丁寧に対応していただいてありがたい。しかし最近思うに実は自分はもしかしたらすでに治っているのではないかと考える時がある。問題は治っているという状態。何をもって「治る」というのか。例えば河合隼雄氏の言葉を引用すると「人間は生まれてくるということはもう病気みたいなものですよね。生まれないであっちにいる方がよほど楽かもしれないですから…」と、これはもう釈迦の言葉に近い。「人間は人間という病気にかかっていて…」とも。「治る」という価値観は常識に添ったものであるから、非常識な価値基準(最近ボクらはこれを「変さ値」とよんでいる)に寄り添えば、常識的には治ってなくても変さ値の高い人はその状態が自分にとってはフツーってことだってありうるということですよ。…でもまあまだ少々イタイといえば痛いんだけどね〜。

仁王

我が家のある山麓はかなりさむいところのはずなんだが、それにも増して今日の長野市も湿った空気がまとわりつくような冷え方…ということで、珍しく三賀日に国宝善光寺へ初詣など。そこで以下おすすめプチ情報/ここの参道仁王門の阿吽二体はかなりイケてる仏像として一目おいてるのです。幕末から明治期に活躍した高村光雲とその弟子・米原雲海の作だが、鎌倉期の至宝・東大寺南大門金剛力士像〜運慶・快慶…という比較連想についつなげてしまうのも決して大げさではない完成度。ふつう地域のお寺で睨みをきかす仁王さまはどこかキッチュというかオモシロ系なブツが多いのだが(それはそれで好きだけど)この二体は完璧な正統派です。特にお足もとがステキ…参拝記念に激写!

それはそうとあけましておめでとうございます。今年もボチボチ更新してきますね!

新年の一句。「詣で道キャラとなりしか不動尊」ご利益があるっていうんですけどね…シールだしなァ…。

untitled

今シーズン3度目の降雪。雪は未明に降ったらしくAM現在すでに明るい陽射しあり。1/23〜2/4の2人展「天地化身」神林學+ナカムラジン(ギャラリーオカベ/東京・銀座)のDMを校了とし、なんとか年内納品をめざし先ほど入稿。なんか全てが綱渡りだが、これで年賀状的なモノも用意できそうで年内に対外的にクリアしなければならないものは一段落。この後は宿題になってる「油屋プロジェクト」のVIシステムの制作などしつつ、そもそもbodhisattvaシリーズの本格的な制作に入らねばね…。

Library of the Year

アーティストワークショップ「美場テラソ」でお世話になってる長野県小布施町(境内アートの町ですよ)の町立図書館「まちとしょテラソ」が「Library of the Year 2011 」大賞に輝きました!すばらしいですね〜。「交流と創造を楽しむ文化の拠点」とスローガンを掲げることは簡単ですが、なんとなく実践してしまうところが小布施らしいですね。もともとこの町は“前例がない”こと大好きで、“だれもやってないんだったら、やってみりゃいいんじゃない…やって考えましょ”って気風がありますね。で、案外それが失敗しないのね…少なくともそう見える。はやり当事者たちが楽しんでる感じがいいんでしょうね。ホント微力ですが「美場テラソ」もそんな楽しさの一助になっているのだとしたらうれしいですが。設計段階で無理言って多目的室に流し台作っといてもらってよかったナー。で、で、来年早々に受賞記念祝賀会開催の運びとなり急遽記念の“引き出物”を制作することになりました。たぶんテラソくんがプリントされてるPOPな何かです。当日までのお楽しみにしときましょうかね。追々ライブラリーショップでグッズとして販売していくことになると思いますので制作完了しましたら画像にてお知らせします。にしても時間がない…また一つ課題が増えちゃいました…だいじょぶか…。

2曲

iTunes Storeをうろうろしてたら結局この2曲にたどりついた。「ひとつだけ 」(矢野顕子+Guest Artist: 忌野清志郎)+「中央線」 (矢野顕子+Guest Artist: 小田和正)どちらも最初から探していた曲ではなかったがなつかしくなってつい…。そういえば清志郎氏がまだおかっぱだったころ初期のRCサクセションの名曲「ぼくの好きな先生」は学校のなかで浮いてる“僕と美術の先生”のことを歌ったもので、歌詞のとおりの世界がリアルに自分のまわりにもあって好きな歌の1つだった。当時だいたい学校という閉じた社会で問題を起こすのは美術か体育の先生だったような。美術はエロ系、体育は暴力系?…といった具合で。どちらも度を越すと問題有りだが昔はそんなエッチっぽい先生とかコワ〜イ筋ものの先生とか必ずいて、ま、生徒にしてみれば多少迷惑な部分もあるのだがそうした胡散臭さも含めて妙な魅力を醸し出す人間的な先生に興味津々であったりしたものだ。

中央線」の歌詞のような女の子とつきあったりしたら大変だろうなとも思いつつ、こちらも問題先生同様ついつい地雷踏んじゃうというかそういう危なっかしいものに手を出したくなる愚かな衝動はわからなくもない…ていうかよくわかる。歌を聴きながら80年代に撮られた映画「時代屋の女房」を思い出した。ある日古道具屋にネコが居着くみたいに住みついた不思議な女性と亭主の恋物語。店の売り物だった「涙壷」を20代半ばの夏目雅子が自分の左目におしあててみるシーンは印象的で美しかった。アイドルとか女性の写真集というものを買うことはまずないが彼女の写真集を見つけたときつい目がくらんでうっかり購入してしまった。その数年後に彼女は急逝する。まったくこの世に永遠などというものはないことを思い知るわけだ。

chaos

そんなことしてるヒマあったら仕事しろよ(もちろん仕事もしてるんだが…)って話だが、気持ちが連続的にハイになってるせいか、ついついblogなどに入れ込んで11月も19回目の投稿となり過去タイ記録。忙しい時ほどなんか本筋とはちがったことしちゃうってあるね。いきなり大掃除始めたりさ…(実はそれもやったが)。ま、それはそうとこうして多忙を極めてる理由が生業の仕事であれ、まったくの趣味的な事柄であれ、それらは全て自分の意識(あるいは無意識)の中から発生したものであることに間違いはなく、であればなおさらそれらを「忙しい」の一言で秩序を失った“混乱”の内に押しとどめること忍びなく、なんとかせめて“混沌(カオス*英語圏でのchaosは「ハチャメチャな」っていうネガティヴな語感がともない、一方仏教的には「空」に等しいらしい)”へとたどりつきつたいところ。そのためにたぶん言葉にして整理して記録してblog書いたり、俳句などしてるわけですね…きっと。そういう意味では掃除も混乱の中から秩序を取り戻すためには有効ということでしょう。というわけで陶磁器用の仕事場をなんとなく大掃除して、本日から日本橋三越恒例「酒器展」(12/21〜27)参加のための絵付け作業に入る。また来年1月の二人展(ナカムラジン+神林學/祈りのカタチ-spiritual form/仮題/ギャラリーオカベ)に出展予定の[bodhisattva-如意]のパネル下地+背景色をシルクスクリーンで仕上げることにしモアブ・エディションに発注。なお、同展オープニングでは篠笛奏者ことさんの演奏を予定しています。こちらも是非お楽しみに。

さて最近のbooksから…「見仏記5/ゴールデンガイド篇」(いとう せいこう・みうら じゅん)、「見仏記/ぶらり旅篇 」(いとう せいこう・みうら じゅん)、「まほらば」 (ガンガンWINGコミックス全12巻)…など。ちなみに「まほらば」はパン職人の長男くん蔵書。なんかゆる〜ぃ感じがよいのです。作者の小島あきら氏の他作品「わ!」もヤツのアパートで読破した。だがOTAKU-BOYクンの数あるコミック蔵書のなかで読めるのはこの2種のみ。

res.

コメントにレスついでに本文にて…。そうですね、「Fight!」は中島みゆきさんの曲です。何人かカバーしてるようですね(竹原ピストルさんのもいいです)。それにしても拓郎さんも昔から聴いてますがだいぶ雰囲気変わりましたね。いい感じのオッチャンになってるなぁ。いろんなものを抱えて彼もある意味スーパーサイヤ人に覚醒した類いじゃないでしょうかね。それにしてもYouTubeのコメントにもありましたが最後に出てくるバックのベースの人インパクトありすぎ。絶対DRAGON BALLに出てきそうなキャラだな。亀仙人にしては頭髪長いし、どこかの界王さまかしらね。

明日からホテルをアートで改装するプロジェクトで志賀に上ります。東京・新潟・兵庫・沖縄から16名のアーティストが集合です。雪降ってんのかな…。もう数日前から長野県北部の降水確率はすべて「雨か雪」という表示に替わっています。

セツナサとカナシミ

仏教には“幸福”という言葉は無いらしい。この言葉はありがちな話だが明治期に西洋の文化・言語が日本に入って来た時に“happiness”にあたる言葉がなく強制的に造語されたとのこと。そのルーツをたどれば胡散臭さがなくもない。一切皆苦と悟った仏陀が「とは言いつつも…」ということで求めたのは、だから“幸福”ではなく“安・楽”ということ。“ハッピー!”ではなく“リラックス”なのだそうだ。一応今は日本人なので感覚的にわかるような気がする。“幸福”を求めたらキリがないような気がするけど“安・楽”だったら「ま、いいか…」って感じ? そうは言っても煩悩や欲は文化を生むし、もし「ま、いいか…」って悟っちゃったりしたら僕は絵を描かなくなるかもしれない。“煩悩即菩提”と自分に言いくるめたいところ。セツナサやカナシミをリラックスして乗り越えられたさぞかしスゴイんだろうけど…そもそも“乗り越えよう”とする発想がまちがってるのか。ケンシロウは“哀しみ”を背負うことで、過去二千年の伝承者の誰もが会得できなかった究極奥義「無想転生」を極めラオウと対峙する。悟空は穏やかな心を持ち、強い“悲しみ”にさいなまれてスーパーサイヤ人に覚醒した。しかし彼らは果たして“カナシミ”を乗り越えたのだろうか。戦いはその後も延々と続く(それぞれ最終回までジャンプを買い続けたので僕は知っている…)。う〜ン…ムツカシイ…やはり秋は物思いにふけってしまうものなのかな。

雪虫

「ゆきむしが飛ぶさびしい季節だね…」大学時代農学部の友人のつくった一編の詩の書き出し。今どき“詩”をたしなむ…などという学生などいるのだろうか。もちろんその頃だってずいぶん珍しい男だったが(ちなみにフランス人の男子は思春期に一度はハマるらしい…一応フラスン人から聞いた)。障子紙のようなものに朴訥な墨の筆でしたためられた彼の詩がなんとなく気になり頼み込んで貰い受け、オトナになるまで大切に持っていた。詩人・中原中也が好きだった彼は30代半ばでかわいい奥さんと小さな子どもを残して急逝する。遠方だったため葬儀には間に合わず後日自宅に焼香に伺ったさい、共通の友人でもあった彼の奥さんに渡すべく、大学時代に彼が書いたその詩の紙片を持参した。和紙は十数年の時を経て少々黄ばんではいたが二十歳前後のピュアな感性は色あせずそこに刻まれていた。僕は“ゆきむし”というモノも言葉も彼の詩を読むまで知らなかった。北国の言葉らしいのでどちらかというとあたたかい地方の彼よりも僕の方が知っていてもよさそうだったのに。

今日“雪虫”を見た。そしてたぶん毎年その季節になると彼のことを思い出す。

そんな思い出に浸らずともたしかにこの季節はどこかセツナイ。しかし最近ハマってる養老先生にかかるとこの手の感情…例えば愛とか恋とかも全て身もフタもない話になってしまう。恋はビョーキと看破する。結婚すれば治るんだと…それができれば皆さん苦労はないのだが、どうも医者はとりあえずなんでも治療したがるってことらしい。そのままでもいいのに。[recently books]「脳と魂」対談/養老孟司+玄侑宗久