Jin Nakamura log

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軸装

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描き表装というのがあるらしいのでやってみた。本来表具師さんの仕事になる絵の周囲の布地の部分まで描いてしまう。自由に布地をデザインできるし、その部分は実は同じ画面上なので本画上のモチーフが布地にはみ出してるような、いわゆるだまし絵のように描けるので面白い。
ということで本日は一度目の裏打ちが完了したところで軸先を選びに表具師さんちへ。相変わらず仕事がキレイ!仕事場もキレイ!!見習いたいものだ〜。

負荷

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柔道家・一条直也なら鉄下駄を、星飛雄馬なら大リーグボール養成ギブスを、悟空が修行するなら10倍重力の界王星で。少年漫画の世界ではいつの時代でもアスリートはありえないような負荷をかけてこそ成長するもの。

僕もアスリートではないけれど仕事中は右手に面相筆を持ち、左手でメス猫の攻撃をかわしながら画業に励む。ちょっとでも気を抜くと集中して運筆している右手の筆先に彼女は的確なフックをくりだしてくるので上手に牽制しながら筆をすすめる。

きっとこれを繰り返していると、猫の乗っていない画布上で僕はいつか神妙の域に達する絵を描けるのでないだろうか…。それにしても伊勢海老に興味津々の小丸(メス猫)。すでに猫をしてホンモノのエビと見紛うばかりの画力に達したか、否エビはそもそも猫にとって有害と聞くからやはり興味は別なところにあるか。

小丸の「しごとばにいれてくれよぅ〜」オーラにまけてついつい扉を開けてしまう僕はしばらくはこの負荷画法を続け、いずれ絵の究極奥義に近づこうと思ふ。

*制作中の作品は目黒雅叙園「猫都の国宝展」at百段階段(3/28〜5/13)出展予定作品・猫派三宝のうち「珍宝・開運縁起物圖」

 

 

昨年秋の運慶展の折り、個人的に最もそそられたブツは龍燈鬼(伝運慶三男・康弁作)…の、オ・シ・リ。

15歳の南都訪問(修学旅行)、2004年の興福寺展(藝大美術館)と昨秋で3度此の子には会っているが、今回ほど彼のオシリに見ほれたことはなかった。(ちなみに相方の天燈鬼はスカート状の腰巻きを巻いているのでオシリは隠れているのです)お尻の谷間に股間前方から回っているフンドシがキュっと締め込まれ左右にプリッと、そりゃあもうカワイク筋肉の小山がはみだして。監視係のおねえさんがいなかったら絶対指でつんつんしたてたかも+盗撮もこっそりしてたかも。

鬼のオシリに萌えるオッサンを如何なものかと思われる向きもあるやもだが、通りがかった若いカップルも「おしりかわいい〜」とつぶやいてたのでこの手の趣向はマイノリティながらも確実にあると思う。「女の尻ばかり追いかけて…」などと言われるが「鬼の尻」もよいものだ。赤ちゃんのお尻などほんと産毛の生えた桃みたいだし、禅の世界では入門したての稚児童子は喝食(かっしき)と呼ばれ、あえて剃髪せず前髪を下げ、白いものなどうっすら塗られて時に師僧や公家・武家の相手をし菊花をほころばせたと聞く(室町時代の話だが)。僕は男色ではないけれど現代よりも少しだけ複雑な愛欲耽美な世界も今となってはノスタルジックにさえ思えぬでもない。

写真は「仁和寺と御室派のみほとけ」展(東博)の仁和寺・観音堂(通常非公開)堂内再現展示より風神・雷神。通常仏像は前からの拝観が基本なのでこうした博物館展示だと、本来目にする事が出来ない仏像の背面が見られて興味深い。残念ながら昨秋の龍燈鬼ほどの感動はこの2体にはなかったが今後ともこうした特別展の折りには背後もぬかりなくなめるようにチェックしていく所存である。

ちなみに後期展示ということで今回見逃した国宝・千手観音菩薩座像(大阪・葛井寺)は名称に偽りなく本当に手が千本ある唯一の仏像らしいので会期中再訪して、少々無粋だがいったいどのようにしたら千本の手が体につけられるのか背後に回ってしっかり確認してきたい。

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画家の仕事

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最終日前日だったから仕方ないのだけれど公式図録はすでに完売とサイトにあったので、残念だが今回は荷物にならないからまあいいかと思っていたのにミュージアムショップには公式図録以外の生賴範義関連の画集が山積みされており結局2冊も購入してしまった。

僕は正直この画家の仕事はよく知らなかった。もちろん友人の画家・オーライタロー氏の父上であり著名なイラストレーターではあるので、どこかで彼の仕事を原画という機会はなくとも、何かしらのメディアでは見ているんだろうな…とは思っていたが、まさかアレもコレもエー、そんなものもーということで改めて自分の不勉強さを反省。
タロー夫人からは「お腹いっぱいになるよー」と言われていたのだが、まさにそのプロフェッショナルな仕事に感腹(服)。筆一本で生き抜いてきた凄みに感じいった。

仕事のほとんどはクライアントがいる受注仕事なので、当たり前だがテーマや素材・モチーフといったものには当然制限(要望・要請・ときには時間も)があり、それを確かな技術と感性でクリアしていくのが仕事になるわけだが、この仕事形態は中世あたりまでは美術業界では至極普通でイラストレーターだろうが画家だろうが同じ事だ。この手の請負仕事とピュアに内発的衝動のみで生み出された作品においてその表現性には優劣など本来ない。

例えば安土桃山あたりから頭角を現す狩野派などはそのモチーフも制作手法も表現集団として極めて様式化されてはいくが、そのクライアントは信長・秀吉・家康と続く戦国武将たちであるから、ある意味命がけで絵を描いている。「ちょろっとパッションでこんなんできちゃいました〜」なんて信長さんち(安土城)の襖に描いちゃったら首がいくつあっても足らないのだ。命がけで絵を描くのだからそりゃ後世に国宝にもなろう。

近世の幕開けとともにARTは自由を手に入れ始めた。金箔の地に大きな松を描かなくても良くなったし、聖書の一場面を正確に再現しなくても良くなった。自らの感性に寄り添って、光にきらめく睡蓮や情熱的なひまわりを描き始める。でもその自由と引き換えにクライアントを失い、絵を描いたり彫刻を作ったりしながら生き抜く事が簡単なことではなくなったのも事実。

生賴範義の仕事はそんな中で表現者としての一つの生き様を提示してくれている。もちろん一人一人ちがっていいし同じ事はできないが、あれだけの仕事(質・量ともに)を潔く描き残した画家の79年の生涯をこの機会に垣間みれたことは自分にとってはラッキーなことだったかもしれない。

余談だが友人・オーライタロー氏がなんで漢字の「生賴」の表記にしなかったのかちょっとわかった気がした。…あくまでも気がしただけであり、単に漢字が読みにくいということだけかもしれないけれど。