Jin Nakamura log

polka dots

NHKにっぽんプレミアム「草間彌生×アダチ版画 ザ・プレミアム 草間彌生 わたしの富士山 〜浮世絵版画への挑戦」をみた。
知人が録画したデータをサイトにアップしてくれたのでそれを(ウチは地デジ化以降TVがないのだ)。
で、ちょっとココロが動いた…かも。
画業80年。今や世界的アーティストとなり、一つの様式を作り上げた作家として「あ、水玉の人ね…」とまとめてしまうのはあまりに簡単だが、そのドキュメントをみるとき何かしら感ずるものはある。作家であるのなら作品が全てであるのかもしれないが、その作品とどう向き合ったか、どのようにして描かれたかを知ることは興味深いし、作品の理解も深まる。

まず今から30年後、自分が彼女と同じエネルギーで制作できるかまったく自信がない(そもそもこの世に留まっているかどうかも)。その一点だけでも賞賛に価する。知られていることだが彼女は精神科の病院とアトリエを日々往来しながら時間を惜しむように制作し続けている。立てないわけではないらしいが足腰もだいぶ弱っているようだ。そうした状態で大作と向き合う日常…それが彼女の日常。その姿を尋常ならざるとものと思うのは僕らの都合であり、あまりに偏った価値観に過ぎないのかもしれない。

どちらの彼岸に立つのかはそれは運命だから。

こちらの岸からは僕らの立っている風景は俯瞰できない。彼女は僕らの世界の混沌を見透かしているようにも見えるがほんとうのところはよくわからない。彼女にとって遊びは死に近いようだし、死を怯えてるようでもあり楽しんでいるようにも見える。いずれにしても彼女の見える風景と僕らの見える風景は異なる…が、共有できる部分が全くないとも言えない。救いはあるのだろう、立場が違っても。そういう能力を放棄しないことだ…と教えてくれる。

肉体と精神を懸けて仕事をするなどということは4,50代で出来ることではない(少なくとも自分などは)。選ばれた人なんだろうな。今の世界に大切な人材のひとりかもしれない。

余談だが(というか本編制作の意図はそこだが)草間の描き出した一万コ以上の水玉とそれを版木に置き換える若い彫り師のココロの対話がすてきである。10,000個の水玉を彫るという荒行がその対話を可能にするのだろう。チャンネルが同期する瞬間をみた気がする。その瞬間を「自己消滅」とレビューされるがそれこそ仏教的にはまさに「諸法無我」ではないか。まさに悟りの世界。自分のような凡夫には理解できなくて当たり前なのだ!

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