Jin Nakamura log

TOPOS

トポスとはギリシャ語で「場所」の意味だが、友人の作家・町田哲也氏が最近この言葉を拠りどころに一つのアートプロジェクトをスタートさている。僕自身この件について未だ全てを正確に把握できてはいないのだが、フェチなモノヅクリでヒキコモアートを決め込むしか術のないような今の業界の閉塞的状況を少しでも是正していこうという行動には共感できるので、今回は彼の掌で遊ばせてもらおうと思っている。ま、いつものことで “やりながら考えればいいでしょ” ってことである。ただヤツの手法により、思いつきやら課題やらが一日と置かず配信されてくるので、一応眺めては見るのだがなかなか対応できずにいる。どうもモニターを通して眺める文字は苦手だ(といいつつも自分でもこうしてログってたりするのだが)。そんなわけで画像と文章を送るようにというミッションはだいぶ前に与えられていたらしいのだが全く把握していなく、本人にあったおりに改めて直接アナログ的に念押しされ、あきれられるという始末。以下に提出用文章の素案を記載。もう少し推敲の後、期限の3/15までになんとかしたい。

箱についての考察

かなりささやかなペースで制作している色絵陶器の酒器(ぐい呑み)のパッケージとして思いついたバナナ箱のリメイクキュービック。伝統工芸界では桐箱にウコンの布地で包み入れるのが一般的であるが、そもそも芸風がエセ古伊万里風だし、ソレが「桐箱」では少々気が引けるし、らしい箱書きも苦手でであったこともあって、ラテンのノリのパッケージデザインをリメイクすればさぞや面白かろうと始めてみたこと。大きなダンボール箱を1辺60mmほどのキュービックに再生するので、絵柄も雰囲気は残しつつも意味不明な感じにトリミングされ、予想以上の仕上がりとなった。となるといつしか箱という機能よりもオブジェクトとしてのソレに俄然興味津々…という次第。もともと内包することへの興味はあくまでも付加的なものであって、本来の趣きは立体的なその表層にこそあったというわけだ。ちなみに中に収まる器に僕はひたすら埋め尽くすように絵を描くのだが、これが三次元的思考を強いられ結構アタマを使う。二次元の画布に描くのであれば四辺の限界ラインまで描きすすめて、そこで余韻を残してオシマイということでよいのだけれど、器の場合少なくとも横方向はエンドレス。どこからが始まりということもないしココで終わりということもない。もちろん小さな世界なので無限に物語りが広がるわけでもないのだが。言っている意味がわからなければ画用紙をくるっとまるめて筒状にしてそこに絵を描いてみればよい。余談だが17才の頃おそらく苦心して手に入れたであろう横尾忠則制作のサンタナロータスのポスターを、それとまったく同じようなモノを作りたくて、あろうことかそのポスター自体を素材として切り刻み、部屋の片隅にあった円柱状のゴミ箱にコラージュして作品としたことがある。今にして思えばなんとももったいないことをしたものだが、エンタシスの柱の如きにジーザスやヒンズーの神々、虹の輪に浮き立つ金色の如来やUFO(すべてが横尾が蒐集した超宇宙的素材であったが)がエンドレスに連なる図はなかなかすばらしく、以後このアートなゴミ箱をずいぶん気に入って使用していたものだ。こんなふうに平面的な作品もちょっと丸めてみるだけでまったく新鮮に見えたりするのだから、たとえば素地が球体であったらどんなことになってしまうのだろうと考える。もはやタテもヨコもなく全ての絵柄は互いのリンケージ(この単語は1990年の湾岸戦争の際に覚えた)の内に存在し合うこととなり、描き手にとっては極めて難解でスリリンな仕事となるだろう。どの方向に描きすすめてもエンドレスでボーダレス。”Imagine” by John LennonなどをBGMにこの”グローブ” と向き合うのがよかろうか。とにかく立体的なモノに絵を描くか、平面的に描いたモノを三次元に組み立てていくか、そんなことが面白い。実はそのような類いのモノは身近に多く、絵付けを施されたコケシやイッチンの技法でこれでもかという紋様に埋め尽くされた九谷の招き猫から、果ては京都東寺の立体曼荼羅などに代表されるような仏教美術など、空間と複雑な三次曲面を絵柄で埋め尽くさんとする性はとどまること無し。話を小さな立方体に戻そう。遠く中南米あたりから船便でやってきたであろう、この素材の表層は和製のモノと比すると色が多少濃く、質感もどこかチープで硬い。印刷された異国情調満点の絵柄も適度に版ズレなどしていて風情がある。途中途中のポートなどで検閲のチェックサインなどの殴り書きなどが施されていたりするとさらにレアモノ感倍増だ。またところどころ通気性を保つための孔が穿たれていたりして、箱に組み立てた際に思わぬ場所にのぞき口ができてこれもまたよき趣向である。しかし実はこの孔の位置にしても組み立てられ6面に表れる絵柄の配置にしても偶然を装いつつもある程度ねらって抜き型の位置を一枚一枚指定している。この工程については展開図の刃型を制作してもらい紙器工場に外注して抜いてもらっているのだが、大概こうした職人集団は普段と異なる、しかも小ロットのラインを流すとなると普通はあまりよい顔はしてくれない。まして材料持ち込み…しかも船旅で疲れてヨレヨレだったり逆に妙に硬かったりで素材が均質でないし、仕事として歓迎される要素がほとんどないのだが、ここはひとつ伝家の宝刀”アート事業の一環でして…” などと堅気の方々には理不尽なフレーズを持ち出し、なんとかご理解の上、今のところ付き合っていただいているのである。たかが6×6×6㎤の箱を制作するにあたっても作家はこうして社会性を身につけ制作とは別なところでたゆまぬ努力をしていたりするというわけだ。2010年秋、兵庫県で開催されたアートイベントで僕はこの箱を用いて「旅するハコ」と称したインスタレーションを試みた。地球の裏側から異国の果実をパッケージングしてはるばると運ばれ、いずれ用済みになったジャンクなハコをリメイクして別な包みに置き換える。さらにそこにまた新たな何かが内包されて誰かの手元にまた旅立っていったらどうよ…などと詩人のようなことを思いめぐらしたりして。場所を移しながらハコの表層と内包が再生していく…そんな趣向であった…しかもちょっとエコだし。

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